『悪童日記』上演にあたって

演出・脚本 山口茜より

今、こうやって私たちが劇場に集まっている間も、世界のあらゆる場所で、人権が踏みにじられ、命が奪われている。そんな時に私たちは、長い時間をかけて演劇の稽古をし、皆さんに集まっていただき、ご覧いただく。今日はこの場を借りて、『悪童日記』の上演を重ねる中で気がついたことを記してみたい。

『悪童日記』は戦時下のヨーロッパが舞台なので、稽古中にガザに関する幾つかの書物を読みながら創作に挑んだ。稽古では「瞑想」をキーワードに据えたので、毎回稽古の前に全員で瞑想の時間を持った。そして5月、実際に平台を使っての稽古に入ったある日、私ははたと、これまでの舞台『悪童日記』の再演で、小説に書かれていないことを自分の想像で補うことをクリエイションと呼び、作品にしてきたのではないかと気がついた。それは私が初演で避けようとしたことだった。

初演時、私はこの小説を読んで、この物語だけを舞台として立ち上げたら、感動体験にはなるかもしれないけれど、戦争をなくすための思考体験には及ばないのではないかと考えた。そこで「文体の舞台化」をテーマに掲げた。この小説の文体は、作家の母語ではない言語で書かれたためかシンプルで、肉体と分離しているようにも感じられる。また、小説は主人公の双子の日記という体で進むが、双子が課した、感情を定義する言葉は避け、真実の忠実な描写に留める、というルールに則って書かれている。この文体こそをビジュアライズするのが、『悪童日記』の本質を捉えることになるのだと、直感的に思った。そしてそれは間違ってなかったとも思う。

しかし再演を繰り返す中で、小説の読後感と私たちの舞台の観劇後感に差があることに気がついた。小説には、双子の感情は一切記されていないのに、読者は読み終わった後、強烈に感情を揺さぶられる。私たちの舞台には、この部分が欠落しているのではないか。

そこで私は、この舞台が思考体験であると同時に、感情体験でもあるように作り直そうと考えた。その中でいつの間にか、一番やってはいけないこと・・・自分の想像で物語の空白を埋めること・・・に手を出していたのである。

双子は自分たちの日記に「真実でなければならない」というルールを課したが、この日記には真実のみが書かれている一方で「書かれていないこと」もたくさんある。「書かれていないこと」に関して、その空白部分を読者の想像で埋めることは読書の醍醐味だろう。しかし演劇は違う。演劇は、生身の人間が演じるものを、大勢で観る芸術だ。そのようなツールを使う時に、作り手である私はやはり「書かれていないことを想像で埋めない」という態度であるべきではなかったか。

ガザでは今も、いろんな大義名分で人が殺されている。小説『悪童日記』でもあったように、戦時下ではたくさんのデマが行き交い、人々の不安や憎悪を煽るものが多い。私は今でも何が本当かわからない、何を信じていいのかわからない、そうやって惑わされることを言い訳に、声を上げる機会を逃し続け、そのせいで虐殺は終わらず、人々は息途絶えていくという罪悪感に苛まれている。

しかしこの局面において大切なのは、何が真実か、と推理することではなく、今、人が殺されているという事実のみに向き合うことではないか。そこにどんな大義名分があっても人権を踏みにじって良いことにはならないし、ましてや人の命を奪う理由にはならない。そのことを改めて認識することではないか。『悪童日記』の長期にわたるクリエイションを通じて、私はこの、非常にシンプルで、大切なポイントに立ち返った。

今回、双子が曖昧さと主観を日記から一切排除したように、私たちもまた、主観を排除し、小説に書かれていることのみでこの作品を解釈し直した。観劇してくださった皆さんにはぜひ、この観劇を通して、思考と感情の邂逅に立ち会っていただきたいと願う。

2025年 5月末日 山口茜

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