二十の顔を持つ男

高杉征司

いよいよ来週から『怪人二十面相』東京公演が始まる。稽古は佳境に入っていて、右手首・腰・右股関節がウララッ! ウラ! ウラッ! と悲鳴を上げている。まだまだ可能性を諦めず、この期に及んで「あーだこーだ」言いながら創っては壊す毎日。サファリ・Pが新作を創るということはこういうことなのだ、と久々の感覚に浸っている。東京小屋入りしてからも、京都公演が始まってからもどんどん変わっていくだろう。
1年半前から稽古している。2019年7月28日(日)までの全94回の稽古。1回の稽古が7時間なので……やめよう、計算するのは。どれだけ時間をかけたって最後に帳尻を合わせることになるのは物事の道理で、我々は答えのないことに立ち向かっているのだ!と一人叫んでみる。心の声が枯れそうになる。心の声にはステロイドも響声破笛丸も効き目がない。ただ言えることは、我々が費やした時間は無駄ではないということだ。それは勿論「時間をかければいい」という意味ではない。「時間をかければいいものができる」ことも意味しない。ただ時間の掛け方を間違えなければ、良質な土壌を作っておけば、最後にはたわわな作物が実を結ぶ、ということだ。皆さんには、それを確かめに劇場に足を運んでいただきたいのだ。

子供の頃に夢中で読んだ『怪人二十面相』。変装の名人で、年齢・性別の垣根を越えてどんな人にでもなりすます。挑戦的な予告状を送りつけ、指定した日時に狙ったお宝を持ち去ってしまう。厳重な警備をかいくぐって。その存在はあまりに大胆不敵。そしてそのトリックたるや奇想天外というよりも実現不可能。文字上でしか成立しないアベコベで稚拙なものだ。
こんなダークヒーローたる怪人二十面相なのだけれど、おじさんになった今改めて読み直してみると、その哲学的存在に驚かされる。「その本当の顔を誰も知らない」この二十面相を形容する言葉は、まさしく人間の存在を言葉の限りに書き尽くそうとしてきた哲学の問いそのものではないか!? いや、そうでもないか? まあいい。「存在」いや「私」と言い換えてもいいかもしれないこの得体の知れないものは一体何なのか? この肉の塊が私の全てなのか? 「本当の私」なる真実在はあるのか?
江戸川乱歩がそんなことを意図したのか否かは定かではないが(恐らくダークヒーローとして子供をワクワクさせたかっただけだと思うのだが)、そういう視点で読み進めるとまた違った面白さが発見できる。さらにはそれを舞台化するとはどういうことなのか? あらすじを伝えてみたってそれは大して面白くもなく、それなら小説を読んでいただいた方がずっと有意義だ。青空文庫で無料で読めるのだから。サファリ・Pの創作はそういうあらすじを説明する類のものではない。怪人二十面相が現れる。しかしそれはすぐに別の誰かに変容し、誰が二十面相なのか分からなくなる。追いかけているつもりが追われている。少し不安になる。私は一体誰なんだ? そうか、私も二十面相なのか。

乱歩の大人向け中編小説『陰獣』を当てどころにした山口茜。その目の付け所はとても面白い。上記のような存在に対する問いがトリックに組み込まれた小説だ。この二作品を結びつけたことで哲学とも文学とも娯楽とも言える、まさに大人も子供も楽しめる作品への一歩を踏み出したと感じている。別々に進行するそれぞれのストーリーラインが互いに影響を与え、混じり合い、最後には一つの世界になる。それは、「こんな私」がいて、それとは違う「あんな私」がいて、「本当の私」を探してみるのだけれど、行き着いたところはあれもこれも含めて「全部が本当の私」であるような感覚。そう、作品そのものが「私」の「存在」を体系化したようなものになっているのだ。

結局のところどんな作品なのかは観てもらわないと分からない。私の言っている事は私の主観で語られており、演出山口の考えそのものではないし、みなさんが観劇してどう感じるかもまた別の話。作品はそれぞれの中にある。いや、それぞれの中にしかない。この作品に対する解釈は無限にあり、その一つ一つが全て本当であり、その総体こそが我々の創作した『怪人二十面相』になるのだ。だから、みなさんに、よりたくさんの方に観てもらう意義と必要がある。
期待してもらって大丈夫です。みなさん、お誘い合わせの上ご来場くださいませ。今回はTシャツやトートバッグ、パンフレットも販売しています。会場でみなさんにお会いできることを楽しみにしています!

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