サファリ・P『怪人二十面相』創作・思考プロセス#1

朴 建雄

○『怪人二十面相』、そして江戸川乱歩について

江戸川乱歩の『怪人二十面相』と聞いて何を思い浮かべるだろうか。サファリ・Pで『怪人二十面相』をやると聞いたときの私は、乱歩の短編集は読んだことがあり、この作品もタイトルは知っているけれども、具体的にどういう話なのかはよくわからないという状態だった。二十面相という怪盗が名探偵の明智と勝負するというぼんやりとしたイメージだけがある。筆者もタイトルも知っているけれども実際どういう話か知らないというのは、古典にはよくあることかもしれない。例えば、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』やドストエフスキーの『罪と罰』等々。乱歩の受容は世代によってかなり違うようで、サファリの山口さんや高杉さんは昔読んでワクワクした記憶がはっきり残っていると言っていた。位置付けとしては、二十代後半の私世代が小学校時代に読んだ『かいけつゾロリ』や『ズッコケ三人組』シリーズに近いのだろうか。ただ、乱歩は児童文学者ではないという点が違う。彼は元々大人向けの小説の書き手だった。

『怪人二十面相』が書かれた経緯を確認してみよう。光文社『江戸川乱歩全集 第28巻 探偵小説四十年(上)』によると、少年倶楽部の編集者から熱烈な依頼があり、依頼自体は前々からもあったことだしなんとなく、という流れだったようだ。題材がなくなって行き詰まるという点では、以前サファリが『財産没収』で取り組んだ作家、テネシー・ウィリアムズに似ているともいえる。テネシーは作家としての成功を収めた後も書き続けたが、同じモチーフの戯曲ばかり書いてマンネリに陥っていると批判され、アルコールと薬物に溺れた悲惨な後半生を送った。探偵小説作家にとって、トリックがマンネリになってしまうのが致命的なのは明らかだ。乱歩の題材が尽きるサイクルはテネシーよりもっと早かった。彼は数年単位ですぐに行き詰っては放浪し、執筆を再開することを繰り返した。推理小説のトリックのネタがなくなると幻想・怪奇小説へ、幻想・怪奇小説の題材が尽きると少年向け小説へと乱歩の執筆ジャンルは変わっていった。乱歩自身、以下のように述懐している。

「私はなんでも初めよし後悪し、竜頭蛇尾の性格で、昔やった職業でも、入社そうそうは大いに好評を博するのだが、慣れるにしたがって、駄目になってしまう。飽き性というのであろう。小説でも同じことで、大した苦労もせず、処女作が好評を博して、初期は甚だ好調であったが、すぐに行きつまり、その転換に、やけくそで大部数発行の娯楽雑誌に書いてみると、これがまた大当り、しかしそれも結局は竜頭蛇尾で、このころは大人ものがそれほどでなくなっていたので、又々転換という心境であったかもしれない。ところが、この少年ものの第一作がまた、例によって非常な好評を博したのである」

 

〇演出家の思考

ちなみに、演目が『怪人二十面相』になった理由は、演出の山口さんの勘だった。他にも色々と案は出ていたので、これに決まった時は正直かなり意外だった。今までの作品とはかなりテクストの性質が違うように思えたからだ。これまでのテクストは、『財産没収』にしろ『悪童日記』にしろ書き手の生い立ちを反映したもので、恐ろしいまでの情念が込められていた。それに比べて『怪人二十面相』はいかにも軽いように思える。今回始めて読んでみて、わかりやすい悪党と正義の味方という区分、現実には不可能としか思えない子供騙しなトリックのオンパレードにいちいち心の中でつっこんでしまった。

4月始めに、演出の山口さんから考えていることを聞いた。『怪人二十面相』から出てくる言葉は、「わくわくする」「見てみたい」ではなく、「虚をつかれる」「はっとする」だという。この作品では時代と社会の空気が犯人を作り、オウム真理教の事件がそうであったように、周りの忖度の結果、首謀者の望み以上のことになってしまうという感覚がある。その意味で『怪人二十面相』にあるモチーフは、金持ちをやっつけたいというものだ。この小説は表面的には単純な勧善懲悪の話に見えるが、江戸川乱歩の他の小説は勧善懲悪ではない。この小説では「子ども向け」という立ち位置的にそう見せかけているに過ぎない。

「怪人二十面相」は大衆の結託によってできる実体がない存在だ。本部のない組織はないので、無理はあるが、「怪人二十面相」は大衆の欲望の具現化として、その都度その都度金持ちを連携して懲らしめる。1930年代当時の日本は金融恐慌のただなかで、金持ちと庶民の格差が大きかった。それを鮮やかに飛び越える痛快さがこの作品にはある。ただ、ふつうに読めば読者は二十面相には肩入れせず、明智に感情移入する。大衆が迎合するものを持っている一方で、二十面相はジタバタする。明智を立てるために、彼のやることは思い通りにはいかない。技を掛け合うが、ちょっと明智が上という感じになってしまう。もしかすると、明智のほうが二十面相より面白いかもしれない。明智は二十面相よりずっとクールな感じで、みんなの憧れのヒーローだ。変装したり潜入したり、技は二十面相と同じだが、ジタバタはしない。また、小林少年は、明智と奥さんの家に住んでいるが、実際のところ子どもではない。彼は小型の明智で、読み手の子供が感情移入するために存在している。しかし、閉じ込められて「ひとねむり」するように、常人ではない。さて、この小説、どうすれば面白い舞台にできるのだろうか。

 

〇死と欲望という通底音

今までのテクストと違う、と書いたが、『怪人二十面相』単体にこだわらず、江戸川乱歩がどういう書き手であったのかに注目すると、サファリのこれまでの作品との連関が透けて見えてくる。サファリの作品に共通するモチーフを考えてみよう。まずもってそれは死と欲望だ。より具体的に言えば、迫りくる死への恐怖とそれに拮抗する力としての性欲である。『財産没収』と『悪童日記』どちらのテクストにも、登場人物たちを取り巻く死と、愛にも暴力にもなりうる混沌としたエネルギーが潜んでいる。私は、この死と欲望がサファリの上演のモチーフになっていると考えている。『財産没収』のウィリーは、姉の死に憑りつかれ、妄想の中で姉と一体化して亡霊のようにさまよう。『悪童日記』の双子は自分たちを押しつぶそうとする戦争の死と暴力に抗って、愛されたいという心を引きちぎって無関心を自分たちに強要し、身体を傷つけて痛みに無感覚になろうとする。

大多数の探偵小説は殺人事件を扱う。その点で死と欲望というテーマが常にそこにある文学ジャンルだと言える。しかし『怪人二十面相』は子ども向けなので、「二十面相は血を見るのが嫌い」という設定になっており、殺人は起こらない。ところで、探偵小説とは、どういう小説なのだろうか。それは、秘密を作り、暴く物語のことだ。小此木啓吾『秘密の心理』によれば、サディズムとは秘密を暴こうとする欲望であり、マゾヒズムとは、秘密を暴かれたいという欲望である。山口さんによれば、乱歩のテーマはSMで、人に見られてはいけないものを覗き見する興奮だという。彼女は乱歩の小説に見られたいのに見られたくないという欲望があるとも語っていたが、これは言い換えれば、この完璧なトリックを見せたい、だが見せると悪事が露見し、捕まってしまうという犯罪者の葛藤でもある。探偵小説はその歪な欲望を合法的に見せられるシステムだ。心の中に燻っている暴力や性欲といった混沌としたエネルギーを「文学」というオブラートに包んで吐き出すための発明とも言える。

 

〇自己療養する子どもたち

主要な登場人物が子どもであるという点も、これまでのサファリの作品に共通している。なぜ子どもなのか。それは、作者が自己形成を演じなおすために書かれたテクストだからだ。人間は子どものときに接した他者からできている。テネシー・ウィリアムズの『財産没収』の姉妹の関係、そしてウィリーとトムの関係は、明らかにテネシーの実際の姉ローズと彼自身との関係を反映している。アゴタ・クリストフは自伝『文盲』で、兄と過ごした戦時中の子ども時代の思い出の断片から『悪童日記』を書いたと記している。

人間を形作る他者は人間に限らない。乱歩の場合、それは小学生の時に読んだ黒岩涙香の翻案ものの怪奇探偵小説『幽霊塔』や、菊池幽芳の探偵小説『秘中の秘』だった。『財産没収』も『悪童日記』も『怪人二十面相』も、自分は何者なのかを書き手が問い、そういう自分がどう形成されたのかをたどるために子供時代に戻り、それを演じなおすために書かれているのではないだろうか。『江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実』所収の「わが青春記」と題したエッセイに乱歩はこう書いている。

「すべての物の考え方がだれとも一致しなかった。しかし、孤独に徹する勇気もなく、犯罪者にもなれず、自殺するほどの強い情熱もなく、結局、偽善的(仮面的)に世間と交わって行くほかはなかった。(中略)しかし、今もって私のほんとうの心持でないもので生活している事に変りはない。小説にさえも私はほんとうのことを(意識的には)ほとんど書いていない。」

「際立った青春期を持たなかったと同時に、私は際立って大人にもならなかった。間もなく還暦というこの年になっても、精神的には未成熟な子供のような所がある。振り返って見ると、私はいつも子供であったし、今も子供である。もし大人らしい所があるとすれば、すべて社会生活を生きて行くための「仮面」と「つけやきば」にすぎない。」

これらの文章を読むと、小説を書くという行為は、乱歩にとっては自分の「物の考え方」を反映した「仮面」を作ることだったように思えてくる。

また、「忘れられない文章」という以下のようなエッセイもある。「青年時代から現在までも、最も深く感銘しているのはエドガー・アラン・ポーの次の言葉である。「この世の現実は、私には幻――単なる幻としか感じられない。これに反して、夢の世界の怪しい想念は、私の生命の糧であるばかりか、今や私にとっての全実在そのものである」近ごろの作家ではイギリスのウォーター・デ・ラ・メイアの次の言葉が、これを継承している。「わが望みはいわゆるリアリズムの世界から逸脱するにある。空想的経験こそは現実の経験に比して、さらに一層リアルである」私は色紙や短冊に何か書けといわれると、これらの言葉をもっと短くして「うつし世は夢、よるの夢こそまこと」と書きつけることにしている。」

ほかの誰とも違う存在、現実世界にいられない人間は、それでも生きていくためにそれぞれのわざを使って自分のための世界を作る。そういう人間のことを芸術家と私は呼びたい。「芸」「術」という言葉はふたつとも「わざ」という意味だ。そして「芸」には「植える」、「種をまく」という意味もある。自分が生きるためのわざが、他者の体や心に何かを植える、そこに芸術の喜びがある。

山口さんが敬愛する村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』に、「書くことは常に自己療養の試みに過ぎない」という言葉がある。探偵小説や怪奇小説を書くことは、乱歩にとって自分の欲望に向き合うための「自己療養の試み」だったのだろう。サファリで扱われる作家たち、そして山口茜という劇作家は、みな「自己療養」のため、他者に理解されない孤独の中で気が狂ってしまわないように、生きるための切実な方法として書いている。彼・彼女らはそこで生きていくための巣を言葉で編む。そしてその自己療養のありようを最もまざまざと見て取ることができる、乱歩の作家としてのキャリアの結節点である小説『陰獣』が、今サファリの『怪人二十面相』創作において大きな位置を占めはじめた。この小説には、秘密を作り、暴くこと、死と性欲、そして作家乱歩その人の姿がはっきりと書き込まれている。子どもとしての面が強い乱歩が現れている『怪人二十面相』と、大人としての面が強い乱歩が現れている『陰獣』を突き合わせ、どう接合するのかが今の稽古場の課題である。それは、乱歩の小説に通底する「秘密を作りたい、そしてそれを暴き暴かれたい」という欲望にどう向き合うのかということでもある。

今回は導入として『怪人二十面相』をめぐる書き手と読み手について概観したが、次回以降は、『陰獣』を紹介しながら稽古場で起きたこととそれに伴う思考プロセスを詳述していく。

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