『悪童日記』レビュー公開 執筆:ピンク地底人3号
『悪童日記』のレビューを公開いたしました。上演映像も配信しておりますので、合わせてお楽しみください。
はじめての往復書簡
ピンク地底人3号
言葉は運動する。だからうまく考えがまとまらない時はとにかく言葉を書けば(運動させれば)良い。言葉の整合性はあまり必要ではない。ある程度言葉を書けば、自ずと自分が何を考えているのか、一体何を求めているのかわかってくる。
3月30日、僕は演出家/山口茜から観客との「架け橋」となる文章を書いて欲しいと依頼され、それから二週間、公演初日まで録画された通し稽古映像の再生と停止を繰り返し、本作の大命題である「言葉でもなく、愛撫でもなく、束縛でもない愛」を探し求めたわけであるが、映像を見る限りではなかなかそれが見えてこず人知れず焦っていた。
そこで4月6日の深夜に思いついた方法は、『悪童日記』という「いささか風変わりでストイックな作品」を、「言葉でもなく、愛撫でもなく、束縛でもない愛」が何なのか見つけられない僕(あなた)を出発点に、わからないなりに必死に「愛」を探す(観劇する)状況そのものを描写しようと試みたのだ。そのために二つの趣向を織り込んだ。一つ目は原作者であるアゴタ・クリストフが『悪童日記』(小説)で実践した「事実のみを書く」文体を模倣すること。二つ目はここでいう「事実」に、私が今現在、pcに向かいレビューを書いており、隣の部屋では花粉症の五歳の息子が激しい咳をしながら眠っている状況すらも含ませること。アゴタ・クリストフと山口が考えたことを文体と映像を通して追体験し、並行して今、僕の隣にいる息子への「愛」を描くことで、山口の伝えたい「愛」が相対的に見えてくるのではないかと踏んだのだ。
そして冒頭に戻るのだけれど言葉は運動する。考えているだけでは埒があかない。とにかく事実のみを書くのだ。その結果、僕は山口のいう「愛」の片鱗を見つけた。しかし僕はその文章の中で「見つけた」とは書かなかった。そこも描写に徹した。
”僕の背筋に電流が流れる。喉元がきゅうっと縮こまる。キーボードを打つ指先にじんわりと汗が滲み出る。”
正直にいうと、僕はその文章を紡げたことに興奮していた。すぐに読んで欲しい一心でサファリ・P製作陣に送った。すると「これではお客さんがわからないから、本番を見てから今一度書き直して欲しい。『財産没収』の上演で書いてもらったようなレビューを書いてほしい」と返信があったのである。
意外だった。おそらく僕が山口のいう「愛」を見つけたということが製作陣及び山口に伝わっていない。読み返すと確かに不親切なきらいはあるし、普段しているように一日寝かせてから送らなかったことも後悔していたから、書き直すこと自体はやぶさかではなかった。しかし他にどんな方法があるのだろうか、いずれにせよクライアントの求める文章を書かなければいけないのは当然だから、今一度、本番を見てから練り直そうと決め、公演初日に伺い、席につき、何気なくパンフレットを開くと、「ピンク地底人3号の文章に書かれた『この舞台の一体どこに山口のいう愛があるのかわからない』という言葉で、演出を再考し、眠れぬ日々を過ごした」旨が書かれてあって、ひっくり返った。僕の文章がサファリ・Pのクリエイションに予期せぬ形で影響を与えてしまったこと、山口の睡眠を妨害したことに戸惑い、謝罪したい気持ちでいっぱいになった。と同時に『悪童日記』のパンフレットのタイトル「自分を愛するようにしか、他人を愛せない」を図らずも今、実感していることにかつてない劇的体験を得たのである。
出演者の達矢が舞台上に現われ、場内アナウンスをし始める。すると達矢の元に佐々木ヤス子が現れ、「彼は男性です、髪の毛を刈り上げています、筋肉質です、彼はグレーのシャツと黒いズボンを履いています」と彼の外見を説明していく。舞台後方に藤井颯太郎(谷美幸)が立っている。次に佐々木は外見ではなく、藤井(谷)の行動を言葉にしていく。すると藤井(谷)は佐々木の言葉に同調するように動き始める。彼は地面に腰を下ろす、彼は身体を横たえる、彼は身体を丸める、彼は動かない、彼の目は四つあります、達矢が目を閉じる、藤井(谷)が目を閉じる。僕(あなた)は二人が双子であることを了承する。二人は踊る。楽しそうにも悲しそうに見えない。大熊隆太郎が現れ、二人の踊りをカットする。達矢が大熊に向かって「父さん」という。すると大熊が父さんであることが了承される。芦谷康介が現れ、双子を抱きしめる。芦谷が「母さん」であることが了承される。双子と母さんはおばあちゃんの家へと向かう。母さんが佐々木に向かって「ほら、あなたたちのおばあちゃんよ」というので、僕(あなた)は佐々木がおばあちゃんであることを了承し、この劇の大体のルールを理解する。つまり外見が人を規定するのではなく、言葉と行動が人を規定する。
双子はおばあちゃんに預けられる。双子の過酷な日々が始まる。おばちゃんはずっと舌打ちをしている。布団は灰色、悪臭を放ち、油は真っ黒煤だらけ、双子は身体を洗うことも眠ることもできなくなる。おばあちゃんは何度も双子をぶつ。双子は体を鍛える決意をする。泣かずに痛みに耐えることができるようにするためだ。ある日、双子は森の中で兵士の死体を見つけ、残された銃と弾丸と手榴弾を家へと持って帰り、屋根裏に隠す。双子は兎っ子と呼ばれる少女に出会う。兎っ子が教会で司祭に身体を売っていることを知った双子は司祭を脅し、金をせしめる。双子と兎っ子は仲良くなる。兎っ子は言う。「私はね、あんたたちがあたしを愛してくれたらって、そう思うのよ」と股を開く。
ここで作品の見方ががらりと変わった。僕は芦谷の震える両足に、兎っ子の切実な愛の渇望を見る。表情、声の質感、芦谷の好演が一気に僕を、この作品を他人事から自分ごとへと引き寄せ、2024年4月の京都と第二次世界大戦期のハンガリーとを鮮やかに接続する。兎っ子はセックスを愛だと思っている。しかし双子の無表情(山口の視線)は、はっきりと「それは愛じゃない」と否定している。そしてその否定は兎っ子にそれを「愛」だと思わせた世界そのものへの否定だと僕は受け取った。
劇は進む。双子にとっての母的存在が3人登場する。双子の母、双子のおばあちゃん、司祭館の女中である。双子の母と女中は何度も双子を抱きしめる。一般的には母なるものの抱擁(=「髪に受けた愛撫」)は無条件で「愛」だと思えるかも知れない。しかし、その抱擁すらも「愛」ではないのだと山口は突きつけてくる。肉親であろうがユダヤ人差別を行う女中であろうが、どんな抱擁も他者にとっては「愛」ではない可能性があるというのだ。それは双子が爆弾を女中のかまどに仕込み、大火傷を負わせること、母親が迎えにきても双子は呼びかけに応じず、母親は爆撃に直撃し死ぬことからも明らかだ。となると決して双子を抱擁しないおばあちゃんにこそ「言葉でもなく、愛撫でもなく、束縛でもない愛」の形があるのかもしれないと見えてくる。おばあちゃんは家畜のように曳かれていくユダヤ人の列に林檎を落とす。おばあちゃんは兵士に殴られる。しかし林檎は何人かのユダヤ人の手に届く……
劇のラスト、双子は父親の死体を踏み台にして、ついに別れる。なぜ片方がその場に残り、なぜ片方が国境を超えたのか。
僕はここにこそ「愛」を見たいと思う。
双子はその気になれば、一緒にいれたはずである。
でも二人は別れた。
それはたぶん、別れることが「愛」だから。
私があなたに差し出す「愛」は、あなたからすれば「愛」じゃないかもしれない。
私があなたに差し出すこの文章は、私が思うようにあなたは受け取らないかもしれない。
私が作った劇は、私が思うように、あなたは受け取らないかもしれない。
誰かと他人になることでしか、きっと「愛」は生まれない。