「続・やってみる演劇」現場レポート②

 1週間ぶりの再会。前回少し打ち解けた参加者のみなさんの関係性が初期化されているかも、そんなイメージで会場入りしたのだけれど、和やかな空気が流れていて少し安心。ウォーミングアップのゲームが始まるとさらに、加速度的に仲良くなってゆく。積み重なってゆく。「人間知恵の輪」と「連想ゲーム」をしたのだけど、私が頑張らなくても声を掛け合い、笑い合い、本当に楽しそう。これはいい発表になりそうだ。

 「連想ゲーム」での話。
 これは連想ゲームあるあるなのだけれど、自分が反応するべき言葉のもう一つ前に反応してしまいがち。例えば「野球」→「応援」→「ボール」みたいな。この場合の「ボール」は二つ前の「野球」からの連想であることが想像できる。瞬間的に妄想を膨らませ、言葉を紡ぐのは確かに難しい。失敗のリスクがある。何も言葉が出てこない、という。でも、失敗することは悪いことではないので、それを恐れず、瞬間に反応する癖をつけて欲しいと思い、その旨を要求してみた。するとみるみるみなさん瞬間に飛び込んでいく。そうするとゲームも今まで以上に盛り上がる。緊張感が増し、ゲーム性が上がったのだ。失敗も起こる。でもそれはみんなの笑顔に還元される。むしろ失敗した方が面白いんだ。ミスが許容される空間。だからみんな怖がらずにリスクをとって飛び込んでいける。ミスを恐れて安定的に進んでいたゲームはあまり盛り上がらない。淡々と回っていく。リスクを取ると途端に面白くなる。私たちの目的は失敗しないことではない。面白い物を創ること。楽しむこと。それがどういう仕組みなのか、その一端を全員がゲームを通して共有できたのだ。コミュニケーションゲームはアイスブレイクとして使われがちで、もちろんその効果はあるのだけれど、やりっぱなしにするのではなく、そのゲームの有用性を最大限に引き出せるルールの設定やコーチングがあるとなお良いのだろうと思う。それはその時集まった方々によって変わってくる。その場で起こっていることを的確に感じ取り、どうすればより効果的に進めることができるかを考える。ワークショップで即興性や感性や直感などを試されているのはむしろ講師の方だ。自分の立場は不動で、受講者の方を吟味し、教え、導こうとするとなかなかうまくいかない。自分の型に嵌めることになるからだ。トレーニングならそれもいいだろう。できないことができるようになるべく努力することを否定するものではない。この辺は当然議論の余地が大いにあるのだけど、「クリエイティブな空間を創る」という場作りを目的に臨んだ今回のワークショップにおいて、今回の経験は実に印象的だった。

 私の書いた台本を4チームで同時に創作していく。同じ台本でも、同じ役でも、やる人によって、演出によって、全然違うものになる。年配の男性がやりがちな上司役を若い女性がやると作品に変化が生まれる。しかもそれは全然おかしなことではない。セリフで言っていることに捉われず心の中に設定を持つ。相手に合わせているだけなのか、商品を売りたいのか、お客さんに早く帰って欲しいのか。それだけでセリフの言い回しも間も立ち姿勢も全然違ってくる。舞台を広く使うこと、逆にあえて狭く使うこと。相手を説得する時、真摯にいくのか、恫喝するのか、お色気作戦に出るか。出演者の方々の演技を拝見して、それを活かす形でどんどん変化を加えていく。そういう考え方もあるか、あの作品がこうなるか、と観ている方も大変刺激を受けておられた。一度可能性が広がり、創作意欲に火が付くと、あとはどんどん自分たちで工夫していける。最後の自主練習は外から見ているだけで大満足だった。

 発表も終わり、振り返り。
 みなさんの言葉に実感がこもっている。ワークショップを振り返るとき、ファシリテーターの欲しい言葉を推測して話すという無意識の強迫観念のようなものを感じることは多い。もちろん面白くなかった、とか、果たしてそうだったろうか? と異論を挟むのは勇気がいる。なかなかあの場で言えるものではない。でも実感のないことはあまり口にしないように心掛けている。実験を検証し、成果を共有する場だと思うので、理想の結果を想定して、「あたかもそうであったかのように」情報を操作するのはワークショップの意義が薄らぐように思うからだ。みなさんの実感を共有し、持ち帰り、次の現場に活かしていく。我々が当たり前に、何気なく見ていた世界の見え方が少し変わったなら嬉しい。