『悪童日記』の躍動日記②

 『悪童日記』国内ツアーもいよいよ最後の地、京都に来た(というより戻ってきた)。
 八尾、横浜と回を重ねた上演は、さらに進化していた。ぜひリピートしてほしい。

 小劇場という空間は面白い。観客と俳優の距離が近く、その分観客と作品の距離も近い。迫り来る熱量が、一般的なプロセニアムの劇場とは段違いだと思う。
 この『悪童日記』の上演もプロセニアムで、観客と俳優との物理的な距離は遠い。むしろ、遠くていい。できるだけ上演・作品を俯瞰して見ることで、かえって一見わかりにくい双子の輪郭がはっきりとしてくる。双子もまた、感覚を失い、まるで幽体離脱しているかのように自身らを俯瞰してゆく。よく言うことではあるが、客観視することで初めてわかることがある。私達も、双子に感情移入するのではなく俯瞰し、徹底的に客体になることで、見えてくるものがあるのではないだろうか。もちろん、俳優の身体が迫ってくるのは前の方の席だとは思うが、折角なので俯瞰してみていただきたい。

 さて。
 ここからは私の個人の感想になるのだが、この作品を初めて見た時に感じたことは、「乾いている」という感覚だ。
 『悪童日記』のテキストから引用したセリフの数々は、生々しいものが多い。生/性への欲望がはっきりと描かれる。言語化される。戦時下で、人はこうも欲望が剥き出しになるのかと、戦争はおろか震災もほとんど経験したことの無い私はそれだけで震え上がるほどに恐ろしく、そして異常なものへの気持ち悪さ、または憧れを感じる。元々性的なものが苦手だし、演劇的表現であっても性的なモチーフを見せられるのは苦手だったし、生死に関わることも出来るだけ見たくないと目を逸らしてしまいがちな人生を送ってきた私だが、このサファリ・P『悪童日記』を見た時には、全く目を逸らしたいと思うことはなかった。これはもしかすると、物理的な距離によるものかもしれないが、それ以上に演出の妙なのだろうなと感じる。出演者の方々は叙情的ではなく叙事的に、声と身体を使って文体を体現する。その声と身体で表現される双子は、明らかに生への欲望があるにもかかわらず、物語に重きを置くのではなく文体に重きを置くことで、双子の「乾き」を描き出しているのだと感じた。

 人はついつい物語を追ってしまう。「ドラマチック」だからだろうか。しかし、物語を追うのではなくその表現の徹底、表現の強度を追うことでこそ見えてくるものがあるのではないだろうかと感じる。

制作助手 中筋捺喜