月別アーカイブ: 2018年10月

「財産没収」ドラマトゥルギー・ノート その一
〜テネシー・ウィリアムズという劇作家について〜

 サファリ・Pのドラマトゥルクを務めております朴といいます。ドラマトゥルクというのは、ドラマトゥルギーの担当者のことです。ドラマトゥルギーとは、「作劇術」の意で、かつては戯曲の書き方を指しましたが、戯曲以外の要素が大きくなってきた現代の作品においては、その意味が上演までの創作過程全体のことに広がりつつあります。この変化に対応し、もともと劇作家が兼ねていたドラマトゥルクの仕事は企画制作(題材や戯曲の選定、編集)・創作過程(稽古場での意見交換)・観客受容(広報や解説)にまたがってきています。

 今回このドラマトゥルギー・ノートでは、サファリ・P 第4回公演『財産没収』のドラマトゥルギーを三つの要素に分けて記していこうと考えています。具体的には、作者テネシー・ウィリアムズ、『財産没収』が書かれた時代背景、サファリ・Pの演出・演技の方法論に関して書いていきます。今回は、劇作家テネシー・ウィリアムズと彼にとって『財産没収』がどのような位置づけの作品なのかについて論じます。


 写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 テネシー・ウィリアムズ(1911-1983)は、20世紀のアメリカ演劇を代表する劇作家です。本名はトーマス・ラニア・ウィリアムズ三世で、「テネシー」は本格的に劇作を始めた青年期からの筆名でした。彼に並ぶアメリカの劇作家としては、ユージーン・オニール(代表作:『楡の木陰の欲望』『夜への長い旅路』、ノーベル文学賞受賞者)、アーサー・ミラー(代表作:『セールスマンの死』『るつぼ』)、エドワード・オールビー(代表作:『動物園物語』『ヴァージニア・ウルフなんて怖くない』)などがいますが、ご存知でしょうか?テネシーの代表作の多くは1940~50年代に書かれ、例えば『ガラスの動物園』(1944)『欲望という名の電車』(1947)『熱いトタン屋根の猫』(1955)は、日本でも盛んに上演されています。同じテーマを何度も描き続ける作家として知られ、1960年代以降は批評家にマンネリだと酷評されながらも独自の深化を遂げた作品を書き続けましたが、生前は評価されず失意のうちにアルコールとドラッグとセックスに溺れた晩年を送りました。同性愛者であったことでも知られており、同性愛解放運動が高まりを見せていた1975年に出版された『回想録』では同性愛経験を赤裸々に語っています。この本は当時ベストセラーとなりました。彼の戯曲の主な題材は、出身地であるアメリカ南部(この地域独自の文化は次回詳述します)や統合失調症を病み生涯を精神病院で送った最愛の姉ローズでした。彼の作品は呻き声にも似て、喪失の苦しみと再生への欲望に彩られています。

写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 今回上演される一幕劇『財産没収』は、もう一つの一幕劇『解放』とともに、『アメリカの情景』という題名で、1941年6月19日に、ニューヨークで出版されました。当時テネシーは30歳で、彼にとって初めての著書出版でした。この『アメリカの情景』には、「人々の風景」(二本のミシシッピ劇)という副題もつけられています。当時は『ガラスの動物園』や『欲望という名の電車』のブロードウェイ公演による大成功を収める前で、テネシーにとっては苦難の時期でした。1940年に初めてプロ劇団のために書いた作品『天使のたたかい』は試演会での不評によりブロードウェイ公演中止になり、ハリウッドに一時的な職を得たものの「ハリウッドの虫けら」として悪戦苦闘していたのです。青年期以降の彼はひとところに長く住むということがなく、アメリカ各地への放浪を繰り返して執筆していました。今回のサファリ・Pによる『財産没収』の演出は、そんな当時の彼の姿を偲ばせるものになっています。


写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 ちなみに筆者は大学院でこの作家を研究しており、修士論文のテーマは未邦訳の後期作品群でした。ウィリアムズの後期作品には『ガラスの動物園』の続編ともいえる自伝劇『ヴィユ・カレ』『曇ったもの、澄んだもの』や、『グレート・ギャツビー』で著名なスコット・フィッツジェラルドと妻ゼルダに自分と姉の関係を重ね合わせた亡霊劇『夏ホテルへの装い』など興味深い作品が多くありますが、残念ながらいずれも未邦訳です(そのうち筆者が自分で翻訳しようと思っていますが)。これらの作品に関する最新の研究成果、テネシーの生い立ちや姉ローズとの関係性についての詳細な記述を盛り込んだ充実した解説文を公演で販売するプログラムに寄稿しておりますので、ご興味のある方はぜひ劇場でお手に取っていただければ幸いです。

 

筆者:朴 建雄
ドラマトゥルク。演劇が必然的に抱え込む様々なあわいを活性化することに関心があり、創作過程と観劇体験の両方を深めるため合同会社stampの演劇製作に関わる。こまばアゴラ演出家コンクール2018実行委員会事務局長。2018年、クロード・レジ演出『夢と錯乱』の劇評により、ふじのくに⇄せかい演劇祭2018劇評コンクール最優秀賞受賞。

【高杉征司 脚本・演出情報】高槻シニア劇団WakuWaku「一号棟一階南角にその保健室はある」

 三年間の継続事業として始まった高槻シニア劇団WakuWakuが節目の三年目を終えようとしている。その一旦の集大成として「一号棟一階南角にその保健室はある」という作品を上演します。

 一年目は、俳優が舞台上に生きている実感だけを求めて「そっとふれてみる」という作品を創作しました。ドラマはほとんど書かず、とはいえお客さんが退屈しない程度には物語を織り込んで、日常のありふれた場面を切り取ったような作品でした。

 二年目は、先日劇団紙ひこうきで再演した「遠くに街がみえる」を上演。変わりゆく街並み、移ろう風景を当てどころに、人間の老いについて考えた作品です。一年目よりもドラマの要素をグッと増して、俳優さんにとってもやりがいのある作品だったと思います。

 そして三年目の今回は、一幕劇に挑戦します。場所は、とある公立中学校の保健室。場面転換はなく、舞台上を流れる時間は全編を通して客席に流れる時間と一致することになります。時間も場所も飛んでいくダイナミズムが舞台の醍醐味だとしたら、時間も場所も飛ばない生っぽさもまた舞台の醍醐味に違いないのです。俳優さんもやりがいがあるのでは、と思います。じっくりと「そこにいる」ことに集中する。変化もリアルタイムで、そこで起こったことに反応し、変化する。舞台上で。70分。「やりやすい」はずなんだけど「どうにも難しい」この試み。三年目ですからね、挑戦しなければ!

 内容はというと、放課後の保健室に先生が集まって、生徒の悪口を言っている、ということなんだけれども、それはそんなに陰湿なものではなく、それが人間だ、というべきものです。文化祭での教師の演し物について話し合う中で、見え隠れするそれぞれの思惑、劇中劇、揺らぐ「存在」。
 「存在」とは? という哲学的な問いに私ごときが解を見いだせるわけもなく、しかし思考を停止したり放棄したりする気にもなれず、悶々とした日々を過ごしています。この肉の塊こそが「私の存在」であるのか、それとも肉体は視覚的なものに過ぎず「本当の」私という存在は肉から溢れ出し、中空を漂っているのか・・・ここに来て新たな問題が・・・「本当の」って何だよ!? そんな、プラトンの言う「イデア」のようなものは果たして存在するのだろうか・・・
 話を手触りのあるところに戻しましょう。俳優に限らず、人はみな演じていると考えられています。言葉遣いや声のトーンは職業や立場によって変わりますし、他者との関係性の中でも変化します。しかし、我々は一般的に「演じている」という自覚はありません。例えば芥川賞作家の平野啓一郎氏は「分人(ぶんじん)」という造語で、そんな「私」というものを体系化しました。関係性や環境に応じて様々な顔を見せるのが人間であり、その一つ一つが分人であり、その総体が「私」なのだ、と。その内の一つが「本当の私」なのではなく、全て「本当の私」であり、その総体が「私」なのだ、と。

 「私」が何なのか、私には見当もつきません。この肉体のことなのか、そこに宿った魂のことなのか。プラトンのいう「イデア」のような真実在があるのか定かではありませんが、分からない以上、ここに実在する「私」を受け入れて、生きていこうと思うのです。
 皆さんのご来場をお待ちしています!

高槻 de 演劇 秋のプログラム2018
高槻シニア劇団WakuWaku第3回公演
「一号棟一階南角にその保健室はある」

脚本・演出:高杉征司

先生は今日も忙しい。

ある公立中学校の保健室。
文化祭の演し物の準備をすべく先生たちが集まって・・・来ない。
そう、先生は忙しいのだ。

「これこそが理想の授業」「なんの、生徒との距離が近すぎてよ」「そもそも『山田』ってほんとにいるんですか?」「財布がない、財布がない」
そう、先生だって色々なのだ。

教師ってなんだ、生徒ってなんだ、教育ってなんだ、そもそも私は誰なんだ。答えなんてないけれど、それでも先生は前を向く。今日もいつも通りの日常。
人知れず彼らを見つめる「二つの目」があることを除けば。

【日程】
2018年10月27日(土) 11:00 / 15:30
      28日(日) 13:00 ※開場は開演の30分前

【会場】
高槻現代劇場 305号室
〒569-0077 大阪府高槻市野見町2-33

【チケット】
一般:1,500円 高槻文化友の会:1,000円
50才以上/25才以下:1,000円

【チケット販売】
高槻現代劇場 072-671-9999(10:00〜17:00)
webでお申し込みの方はこちら

主催:公益財団法人高槻市文化振興事業団
企画協力:特定非営利活動法人劇研

やってみる演劇【俳優編】現場レポート①

 「何か始めてみたい人のための体験講座」と銘打って、茨木クリエイトセンターで行われたワークショップ(全4回)が終わりました。合同会社stampの主催事業(共催:公益財団法人茨木市文化振興財団)としてかなりの責任感を持って臨んだのですが、結果的に本当に素敵な時間となってホッと胸をなで下ろしています。参加者のみなさんと共催いただいた財団さんへの感謝の気持ちでいっぱいです。

 第一回(9月22日)は緊張の中、始まった。
 外は土砂降りの雨。秋の気配も強く漂い始めた肌寒い気候が緊張感に拍車をかける。私自身かなり緊張していたのだけれど、少しでもほぐそうと始まる前からみなさんに話しかける。参加者が子供の場合はこちらの質問に対して単語で答えが返ってくるだけなのだが(それがまたかわいいのだが)、大人たる今回の参加者のみなさんはどんどん会話を紡いでくださる。さすがのコミュニケーション力!

 導入のお話だけして、すぐに「人間知恵の輪」でお互いに関わり合っていく。自己紹介からゆっくり助走していくのもいいけど、私は腰が重くなるのを嫌って、まず立つ。そしてフィジカルから入っていく。自然と会話が生まれ、相手を視認し、接触を試みる。少しずつ場が緩んでいく。「握手回し」をしながらの「自己紹介」や「立ち座り」、「ビンバンボイン」などゲームを通して、楽しみながら俳優に必要な感覚を疑似体験していただく。マルチタスクに苦しみ、刺激に対するレスポンスに驚くことでどんどん笑顔の輪が広がっていく。必然、成功することは目指すがそれが全てじゃないこと、失敗は挑戦の先にあること、失敗するとみんなが笑ってくれて場の空気が極めてよくなること(失敗はギフトであること)を感じていく。それがみなさんのコメントとなって現れる。

 「フリートーク」。4〜5人が一組になってただトークを楽しんでいただく。
 最初の組は「ハロウィン」について。ジャーマンヘヴィメタルの「Helloween」ではなく、イベントの「Halloween」についてであることは言うまでもない。お互いの経験や知識に基づいた所感を交互に話しながら、相手の意見に立ち入っていったりのクロストークに発展し、とても面白かった。ポイントは「観ている人」がいること。ただ話しているだけなのに、これだけで一つ演劇が立ち上がりそうになる。
 次の組は、「信号無視」について。誰もいない見晴らしのいい交差点を歩いていて信号無視をするか否か。ルールとマナー、モラルなどが関わってくるので少し発言に責任が出てくる。ここはドキュメンタリーの面白いところ。しかしディベートにして、相手の意見に納得したら鞍替えするというルールを付け足すと、さっきまでの淡々とした会話が少し熱を帯び、これもある意味の演劇性を付与される。
 次は、同じ「信号無視」の話を「立場を入れ替えて」行った。信号無視する人は「しない人」として、しない人は「する人」の立場で話す。飄々と話す人、話せなくなり黙る人、ルールの抜け道を探す人、それぞれの対応が興味深い。役というペルソナを被る演劇性を疑似体験。それぞれの対応がそれぞれの役作りの原型なのかな? とほくそ笑む。
 最後は、「時限爆弾」。紙に「赤い線」と「青い線」を書いて、ハサミと共に渡す。間違った線を切れば爆発します、と伝え、観ている人だけに「切れば爆発する方の線の色」をお伝えする。で、ヨーイスタート。演劇をやったことのない人たちがその設定を受け入れて、どんどんお芝居を始める。爆発の緊張感。60秒という時間制限がその緊張を助長する。発話が変わる。笑いも生まれる。それぞれの経験の中からどっちを切るべきかのディベートも始まる。喧嘩も始まる。結果的に「青い線」を切った彼らは激しく「爆死」したのだけれど、素晴らしい「見世物」だった。実際に「線を切る」というアトラクション感も楽しんでいただけた要因かな、と感じる。

 ワークが終わると雨も上がっていた。雨の中 緊張と共に始まったワークショップも、終わってみると柔らかい空気に包まれていた。みんな笑顔だった。来週が楽しみだ、なんて思っていた。

高杉征司

高杉と往く「財産没収」2018 稽古の旅①

 財産没収の稽古がすっかり始まっている。再々演ということは三度目のお披露目となるのだからすんなり進行するのかと思えばそうでもなく、やはり産みの苦しみに直面している。作品を創るというのはつまりそういうことなのだ。

 三年前、初めてこの作品に取り組んだときは本当に往生した。ひと月半、期間は短いけれど、毎日朝から晩まで稽古場に缶詰状態で「あーでもない、こーでもない」と知恵も身体もひねり続けた。上手くいっていると思っても辻褄が合わなくなったり、気がつけば何を目指していたのか分からなくなり迷宮を彷徨い歩く日々。そんな苦労の甲斐あって、それなりの手応えを持って利賀演劇人コンクール2015に参加し、優秀演出家賞一席をいただいた。と、そこまでは良かったが、2017年夏、せっかくそれなりの評価をいただいた作品なのだから関西でも上演し、地元のお客さんに観ていただこうと再演プロジェクトが始動し、稽古が始まってみると、それはもう何をどうしたらいいのかてんで分からないことになっていた。動画を見て、その通りにやってみるのだけど、なぜ自分がそんなことをしているのか? さっぱり分からない。形だけはなぞれるのだけれど、演技の根拠もそこにいる意味も感情も概ね思い出せない。何度かやれば湧き上がってくるだろうと試みるも、やれどもやれども模倣しているだけの私がいる。中身なんて何もない、形骸化した「死に体」だけがそこにある。

 その原因と思われるのは、「圧倒的な情報量」。本来演劇は「言葉の意味」を伝えることに終始しない。言葉とは反対の心持ちでいるかもしれないし、そう言わざるを得ない状況こそが大切かもしれない。同じ意味でも発話の仕方によって人格や関係性が見えてくる。そんなことが、この豊富な情報こそが演劇の面白さであることに疑いの余地は(あまり)ない。そこへきてこのサファリ版「財産没収」は情報を限定しない豊かさに溢れている。ポエティックと言ってもいい。その女は郡の調査官かと思えばウィリーの姉「アルヴァ」であり、ともすれば作者テネシーの姉「ローズ」でもある。はたまた「姉」という概念そのものとしてフラフラ歩いているようにも見える。その様はギリシャ喜劇をも彷彿とさせる。テネシーだと認められるその男は、時には作中の登場人物ウィリーであり、芸術・創作に苦しんでいるかと思えば、社会との軋轢に苛まれ、姉を憂いたかと思えば、今度は恋人との関係(ジェンダーも含め)に怪気炎を吐く。テネシーの恋人と思しきその男は、ある時は作中の登場人物トムであり、またある時はテネシーに立ちはだかる「社会」そのものであり、創作に手を差し伸べたかと思えば、痴情の果てにテネシーをぶん殴る。人にしたってそんな塩梅なのだけど、そこへきてモノまで加わってくる。テネシーが「財産没収」を記している赤いノートは、作中の赤い凧であり、赤い絹のチョコレートの箱であり、芸術・創作の苦しみ・喜びの権化である。「腐ったバナナってなんだ?」「プレストン先生って誰だよ!?」と、もう触り始めたらキリがない。それらが時に姿・意味を変え、時に重複して、舞台上に降り積もっていく。演出も俳優もそれらのおびただしい情報を精査して、場面ごとにいるものいらないものを峻別していく。当然綺麗に整頓はできないので、その情報の湯船にどっぷり浸かっている感じ。やるたびにイメージが変わる。やっている人間からしてそうなのだから、観ている人は尚更だろう。そんな「概念」と「存在」の「ゆらぎ」「不確かさ」「重複」を出来るだけシンプルに料理する。焼き魚は塩で喰らうのが一番うまい。まあ・・・これは個人的嗜好だ。

 そして今回、やはり同じ現象を楽しんでいる。前回同様に立ち上げてみて、それが形骸化していようがひとまず立ち上げて、不具合も新たな可能性もみんなひとまとめに探っていく。出演者は3人中2人が代わった。そりゃ苦労だってひとしおだ。だけど稽古を重ねるほどに、言葉を紡ぐうちに、パフォーマーの立ち方も変わってくる。作品の密度も詰まってゆく。字義通り「無限の可能性」を感じる。嗚呼、私はこんなことが楽しくて演劇に邁進しているんだった。そんなことを思い出させてくれるこの作品。再演すればするほどに、面白く、分かりやすく、刺激的になっている。掘る作業は苦しいけれど、掘れば掘るだけ水が湧く。作中で、創作に苦しみ、創作に歓喜するテネシー・ウィリアムズの姿は、まさに稽古場で苦悩し、悦んでいる私たち自身の姿なのだ。

【高杉征司 脚本・演出情報】劇団紙ひこうき「遠くに街がみえる」

 私が脚本を書いて、演出した「遠くに街がみえる」を高槻シニア劇団WakuWakuで上演したのが2017年11月なので、あれからもう1年経ったことになる。終演後、ほどなくして「この作品を上演したい」とオファーを頂いて、演出もすることになった。オファーは「劇団紙ひこうき」からで、この公演が旗揚げとなる。

 元々この台本は、二年半前に岡山でのクリエイションのために書き下ろしたものだ。小学生・中学生約20名が対象のワークショップ公演で、思春期を迎える彼らの「実感」を掬い上げようとしたものだった。翌年、それを「シニア世代」で再演したのにはワケがあって、そこにもシニア世代の「実感」が影響している。
 シニア劇団WakuWakuの新年会で、一人の団員が某公共放送のドキュメンタリーの話をしてくれた。ある人気バンドの曲を、そのバンドの生演奏に若者たちが合唱で参加して一緒に演る、というものだった。「あの若い時のエネルギーはどこへいったんだろう・・・」とても実感のこもった言葉だった。当然、数十年の時を経て、失ったもの・手に入れたもの・形を変えたものがあるのだけど、それが何なのかを作品を通して検証してみたくなった。演じる人・観てる人が、自分の過去に想いを馳せ、今を実感し、未来を想像する時間を創出すること。そんな目論見を持って大幅に台本を書き直した。還暦同窓会で、学生時代を過ごした寮を訪れた「シニア」。そこで一夜を過ごす中で、蓋をしていた感情が蘇ってくる。そんなお話。

 そして今回、若者とシニアの混成チームで挑むことになった。昨年の上演後、実際に若者を入れてやってみたいな、と思ったところへ「再演依頼」がきたものだから、思い切って打診してみた。結果的に「やって良かった」と思っている。
 十代はやはり身体が動く。そして変化を受け入れやすい。シニアは滲み出るものが分厚い。そしてコミュニケーション能力が高い。そんな当たり前のことを改めて実感する。そしてそんな異なる世代が「高校生」として舞台上で交流する。違和感があってみたり、次第にそれもなくなってみたり、むしろしっくりきてみたり・・・観た人が何を感じてくれるのか? 今から楽しみだ。

 随分前に完売してしまったので、増席しました。ご来場をお待ちしております!

高杉征司

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劇団紙ひこうき第1回公演
「遠くに街がみえる」

脚本・演出:高杉征司(サファリ・P)

あの頃、みたかった景色
今、みている景色
これから、みるであろう景色

還暦同窓会で思い出の学生寮に集まった四人。一夜を明かすうち、蓋をしていた感情が少しずつ蘇る。
若さゆえの過ち、若さゆえのエネルギー。「我々は何を失い、何を手に入れたのか?」
18歳の当時と60歳の今が交錯する青春群像劇。

【日時】
2018年10月13日(土) 17:00
       14日(日) 11:00 / 15:00

【会場】
人間座スタジオ(京都市左京区下鴨高木町11)

【料金】
一般 1,500円
60歳以上/学生 1,000円
親子割引⭐︎ペアで 2,000円

【チケット取り扱い】
電話:050-7115-8487
メール:kamikamikamihikouki@gmail.com
Twitterアカウント:@kamihikouki2018

ジゼル・ヴィエンヌと茂木宏文

「幸福な王子」終わりで東京へ。一つは芸術公社の主催するドラマトゥルギー・ラボ特別編、ジゼル・ヴィエンヌ氏のレクチャーに参加するため。もう一つは、今度3月に作らせてもらうオペラのための打ち合わせ。そして幸せなことに、その合間に、夏に講師をさせていただいたワークショップの参加者とランチしたり、ドラマトゥルクの朴さんと落ち合って、京都にいる高杉さんとオンラインミーティングをしたりも。

まずはジゼルのレクチャーを聞きにアンスティチュ・フランセへ行き、あっという間の2時間を過ごす。スタートして5分ぐらいで、あ、参加してよかったやつかも、と思う。いろんなファシリテーターと出会うが、だいたいいつも話して5分ぐらいで、この人が今の私のレベルにぴったりかどうかがわかる。レベルが上すぎても下すぎても何を言っているのかわからないのだ。ジゼルはちょうど私が、感覚としてわかっていたことを少し深く掘り下げたりはっきりと言語化してくれたりで、例えが上手いのも相まって相当面白かった。結局彼女は演出としてとても地味な作業を行っているだけなんだけど、それができているからこそ作品が結実するのだということ。幾つかの過去作品を見せながら説明が進んでいく、彼女の過去作品を以前に何度もウェブなどで観たのだが、ぶっ飛んだ舞台写真からは程遠い緻密で堅実な創作過程を知ることができた。

2時間をオーバーしたので、まだ終わらないうちに私は次の待ち合わせのために神楽坂を登る。

作曲家の茂木宏文さんと落ち合う。イタリアン食べながら、お互いの影響を受けた作品などについて語る。そういう提案してくれたのは茂木さんだ。提案されるまでは思いもつかなかったけど、確かにお互いの興味について知り合うことから始めるのは、創作にとっては重要かもしれない。(今この記事は茂木さんに教えて貰った「ル・グラン・マカーブル」の「マカーブルの秘密」というアリアを聴きながら書いている)

翌日はサマースクールで出会った方々とランチ。勝彦さんの書いた物語に、ウォルフィーさん、いくちゃんと大笑いする。勝彦さんは本当に天才だと思う。

その後もう一度茂木さんと会い、アイディア出し。オペラを作るのは二回目だけど、なんというか、今の所演劇を作るのとあまり変わらないスタート。つまり観客にどういうドラマを届けたいのかということ。ただスタートから作曲家がいるというのが大きく違う点だ。とにかく、作曲家と一緒に作る感覚を私は求めていたし、茂木さんもそれを希望されていたので、幸せな出会いだと思う。にしてもまだそこにいない観客に対して、先にドラマを作るということの難しさよ。これ、人間の脳の動きに似ている。例えば言葉を思い出そうとするとき、私たちはその言葉が何なのか忘れているくせにその言葉が探せばどこかにあることを「知っている」。創作もおそらくそういうことなんだ。観客がその存在を知ってはいるもののその名を忘れてしまったもの。思い出したいもの。それを掘り出すのが私たちなのだろう。

夜はstamp制作ミーティング。朴さんと高杉さんと話す。「財産没収」に始まって、2020年3月までのことを。

次の日は朝10時半から18時まで、ジゼルのワークショップ。課題として読んだロベルト・ヴァルザー「池」が私にとってはドストライクの戯曲で、何度読んでも発見があって面白い。これをどういう風に紐解いていくのかというワークショップに前日から心が躍っていた。

ただ、実際のワークショップは、パフォーマーではない私には結構辛いものであった。ジゼルの話はいくらでも楽しめるのだが、自らがメディテーションに参加するのは辛かった。聴講を希望するべきだったのかもしれない。とにかく、静かな一人きりのプライベート空間で何度チャレンジしてもなかなか掴めない「メディテーション」というものに、全く知らない他者が多くいる初めての場所で挑むのはかなり(私には)無理があった。それでも「郷に入れば郷に従え」が私のモットー、と思い挑んだのだが・・・

彼女がこのロベルトの戯曲をどのように見ていくかが語られたのはやはり面白かった。私が戯曲を読んだレベルで「こうしたい」と思っていたことと、ジゼルのアイディアはほぼ同じだった。でも私が驚いたのはそこではなかった。ジゼルは言った。「この素描のようなものを発表の2年ぐらい前に作ります」と。

サファリ・Pも一つの作品に数百時間の稽古をする。だけど2年前に素描はつくらなかった。そんな前から、そこまではっきりと試すのか。納得するまで俳優を探し続けたりというエピソードも。

メディテーションでは辛い思いをしたが、結局収穫のあったワークショップではあった。今週末はジゼルの「CROWD」を京都で観る。

サファリ・P 第4回公演「財産没収」チケット発売開始!

サファリ・P旗揚げのキッカケとなった作品「財産没収」。
初演は2015年7月、利賀山房(富山)にて上演。利賀演劇人コンクール2015に参加し、優秀演出家賞一席を受賞しました。
再演は2017年7月、アトリエ劇研(京都)にて上演。利賀で審査員の方々からいただいた課題に取り組み、大幅に改定しました。より深く、より面白く、より分かりやすくなったと自負しております。
そして今回の再再演。開催都市は愛媛・沖縄・東京・京都(試演会)。レパートリー作品として、たくさんの地域の方に観ていただけるのを楽しみにしています。キャストも高杉征司・達矢・佐々木ヤス子という面々で、装いも新たにお届けします。

本日10月1日、いよいよチケット発売開始です!
みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げます!

公演詳細・ご予約はこちら