高杉と往く「財産没収」2018 稽古の旅③

 いよいよ「財産没収」2018のツアーが始まった。

 松山から始まるのだけど、実はその前に12月1,2日と京都で試演会をして、途中経過をお客さんに観てもらった。「work in progress」といって、完成前に観てもらうことで完成度を高める効果がある。曲がりなりにもお客さんに観せるのだから、そこに帳尻を合わせて創作することになる。人間はどうにもリミットに帳尻を合わせるようにできていて、それは自覚的に「ま、いっか」と先延ばしするでもなく、無自覚にそうしているからタチが悪い。なので、試演会を設定してリミットを早めると、その分前倒しで形になっていく。一度形になったものは全体像が見えやすく、自分たちの創ったものが何なのか? 創ろうと思ったものとどの程度隔たりがあるのか? 意図しない果実があるのか否か、など判断がつきやすく、修正も入れやすい。
 それに加えて「観客の目」というのが非常に重要になってくる。稽古場の中では作品は完成しない。人目に晒して初めて作品となる。それは「作品を作品と認知する『観察者の目』がないと、作品は作品として存在できない」という物理学的・哲学的問いでもあり、しかし我々がもっと大切にしているのは「観客の目が自分たちの創ったものに輪郭を与える」という点だ。不思議なもので、我々は長い時間をかけて思考を巡らせ、言葉を尽くして創作に取り組むのだが、つまり自分たちが一番この作品に詳しいはずなのだが、観客の前で披露してみて「あ、この作品って@@@なんだ!?」と初見の観客に気づかされることが多い。それは思いがけず作品を覆ったテーマであったり、個々のシーンの意味だったり、個々人の人格の役割だったり、笑いを生み出すポイントだったり、大きなことから小さなことまで様々だ。観られることで客観性が生まれ実感してみたり、彼らの反応に教えられてみたり。言葉を交わさなくても、観られるだけで色んなことを感じられるこの稀有な本番体験が作品を成長させる。それを本番に前倒して行うことで、本番の段階でのスタートの完成度を上げよう、という試みがこの試演会なのだ。

 小さな会場にギュウギュウに集まってくれた観客の皆さんの前で、思いっきり演じてみる。劇場には何かがある。それが何かは分からないけれど、確実に何かがある。変な言い方をすると「霊力が宿っている」。幽霊がいるとかいないとか、そういう話ではない。本番が近づく緊張感や音響・照明の効果が与えてくれる力、それは間違いなくある。でもプラスαの何かを感じる。ヒリヒリする。
 共演者の二人も存在に輪郭が出てくる。クッキリと存在している。「ここにいる意味を感覚的に知ってしまった身体」。もっと言えば「意味があろうとなかろうと、私はここにある」という根本的な説得力を持っている。そんな我々を見つめる無数の目。その目の数だけ解釈があり、それらはどれも正しく、どれも正しくない。そして多様な解釈の集合体であるはずの観客は、なぜか「一致団結して」我々の眼前に立ち塞がる。それから逃げたり目をそらしたりすると、せっかく彼らが無意識に教えてくれることを取り逃がしてしまう。屹立し、そのリスクに向き合って、初めて果実を手にすることができる。
 試演会終わりの合評会でそんなことを考えていた。観客は作品の鏡。そこで見えたことを汲み取って、松山に繋げていく。さらには沖縄、東京へ。観客が変われば作品の印象も変わる。我々も日々変わっていく。結局、どこまでいっても変化し続けていく。そういう生きた作品を創っていきたい。

 12月5日。京都芸術センター最後の稽古は「公開通し」。明倫ワークショップとして市民に公開の義務がある。公開稽古でもいいし、ワークショップをしてもいいのだけれど、我々が選んだのは「通し稽古」。松山へ出発する前の最後の稽古、最後の通しを公開することにした。これは今までなかったことで、やってみて非常によかったと感じている。試演会で感じたことを作品にフィードバックして再創作し、それを本番前最後の通しとしてさらに公開する。このタイミングでさらに観客の目に晒され、緊張感を持ってプレイできる。自分たちが再創作したものが何だったのかも、薄ぼんやりとではあるが自覚できる。参加者の皆さんは本当に熱心に観てくださって、作品に、我々に輪郭を与えてくださった。感謝します。

 そして今週末は初めての沖縄公演! ワークショップもやります! 素敵な出会いに期待!

サファリ・P 第5回公演『悪童日記』チケット発売開始!

本日2018年12月1日よりサファリ・P 第5回公演『悪童日記』のチケット発売開始!

原作翻訳者である堀茂樹氏をして「今はもう地上にいない原著者アゴタ・クリストフに観せたかった」と言わしめ、追加公演も行ったサファリ・Pの代表作を再演します。演出・演技をさらに研ぎ澄ました上で、双子の一人を女性とし、作者アゴタの孤独を掘り下げてさらなる深みへと潜ります。

「私たちはヒトラーと、どう違うのか」

『悪童日記』という小説に満ち満ちた「言葉を持たないための言葉」からは、言葉を信じられない今の世界への切実な問いが滲み出します。

皆様のご来場をお待ちしております!

公演詳細・ご予約はこちら

高杉と往く「財産没収」2018 稽古の旅②

 稽古する。飯食って、クソして、寝る。それを幾度か繰り返していたら、アッと言う間に明日から小屋入り。早い! 光陰矢の如し! 「矢」と言えば「達矢」くん。ブレイクダンサーだが、いろんな表現形態に興味を持っていて、お芝居も気に入ってくれている。私にトーマスやウィンドミルといったブレイクダンスの技も教えてくれる。教え方の特徴は「飴」と「チョコ」。ずっとべた褒め。ダメだよ、達矢くん、虫歯になっちゃうよ! 達矢くんの「飴」や「チョコ」を求めて、最近では佐々木ヤス子さんもウォーミングアップに達矢presentsブレイキング講座を取り入れた。私の視界の端っこでクルクルと回っている。っていうか、うまいな、佐々木ヤス子! クルクルしてるやん、クルクル!?

佐々木「ちょっと気持ち悪いです・・・」

三半規管は弱いようだ。

 

 どうも舞台が小さい気がする。ちょっと動いたら人にぶつかるし、振り返れば壁・・・絶対に前回公演より縮小されている。舞台監督の浜村くんに詰め寄る私。前回と全く一緒だと舞台図を見せる浜村くん。腕を組む二人。沈思黙考。結論が出た。

「達矢くんがデカいんだ!」

な訳あるか!
確かに初演・再演に出演した松本くんは小さかった。だとしても、だ。

いや、やっぱりこいつがデカいんだ・・・

 佐々木ヤス子さんが歩いている。それはもう歩いている。あとをつけてみる。ストーキングではない。共演者にストーキングはしない。いや、共演者以外にもストーキングはしない。私はストーキングをしないタイプの人間だ。信じるかどうかはあなた次第だ。彼女があまりに完璧なので化けの皮を剥がしてやろうとつけている。芝居はうまい、セリフもすぐに覚えてくる、演出の言葉への反応も抜群、ユーモアがある、人の意見はいったん受け入れる、性格がいい、笑顔が素敵 etc.etc これは達矢くんにも共通のことだ。なんだ、この二人は。一緒にいると俺の浅ましさが際立つではないか!? マジ、天使かよ!? いや、そんなはずはない。人間とは生まれながらにして罪を背負っているのだ。生きていること、それ自体が罪悪なのだ! おっ、芸術センター北館の建物と壁の隙間に入っていくぞ。これはとんでもない秘密があるに違いない。架空請求の証拠を隠しているのか!? 悪口を吐き出す穴を掘っているのか!? ジリジリと距離を詰める。思い切って飛び込んでみる。

高杉「キョキョキョキョキョッ! 人間なんて一皮むけば皆一緒よ〜!」

彼女は猫にエサをやっていた・・・
根本的に違うのだ、俺と彼女は。優しいんだ、本当に。マジリスペクト。

そんなこんなで絶賛稽古中! 
みなさんのご来場をお待ちしております!

『財産没収』ドラマトゥルギー・ノート その二
~時代背景について~

 サファリ・Pのドラマトゥルクを務めております朴といいます。このドラマトゥルギー・ノートでは、サファリ・Pの『財産没収』の作劇術(=ドラマトゥルギー)について、3つの要素に絞って紹介をしています。今回は『財産没収』という戯曲が書かれた時代背景について論じます。


写真/サファリ・P 第3回公演『財産没収』より 撮影/堀川高志(kutowans studio)

 『財産没収』が出版されたのは1941年6月19日。アメリカが第二次世界大戦に参戦するほぼ半年前です。同年12月8日(アメリカでは、12月7日)に日本軍による真珠湾攻撃が行われました。この劇のト書きの中には、時代が何年頃であるかの記述がありません。劇中で少女ウィリーが口ずさむ歌You’re the Only Star in My Blue Heavenはジーン・オートリー(1907-1998)によって作詞作曲され、1936年に発表されています。そのためこの劇の「時間」は1936年から1941年の間であると推定されます。

 この作品のテーマソングを歌うジーン・オートリ―は、「The Singing Cowboy:歌うカウボーイ」の愛称で呼ばれた、米国を代表する国民的カントリー&ウェスタン・シンガーかつ西部劇俳優でした。日本では、「Here Comes Santa Claus/サンタクロースがやってくる」、「Rudolph The Red Nosed Reindeer/赤鼻のトナカイ」、「Frosty The Snowman/フロスティー・ザ・スノーマン」などの戦後リリースされたクリスマスソングでよく知られています。ちなみに、You’re the Only Star in My Blue Heavenは、ベスト盤等にも収録されておらず、彼の歌の中ではあまり有名ではありません。

写真/サファリ・P 第3回公演『財産没収』より 撮影/堀川高志(kutowans studio)

 当時の時代背景について、具体的には1920~40年代の戦間期のアメリカのことをより掘り下げてみます。1920年代のアメリカは「狂乱の時代」と呼ばれ、大きく栄えました。アメリカは第一次世界大戦で強力な債権国になり、好景気を背景に大衆消費社会化が一気に進みました。自動車と映画が普及し(自動車の価格は10年代の3分の1となり、映画は27年にトーキー化され、29年にアカデミー賞が発足)、ジャズと雑誌も流行します。当時は「ジャズ・エイジ」とも言われました。ニューヨークでは建築ブームが起こり、エンパイア・ステートビルやクライスラー・ビルが建築されます。また、1920年には女性参政権が確立し、フラッパーと呼ばれる自由奔放な女性たちも現れました。1920年には禁酒法も制定されますがアルコールを求める人々は絶えず、シカゴのアル・カポネに代表されるギャングによる全米の酒類密輸と組織犯罪の勃興に繋がっていきます。

 政治的には、歴代最低と言われる大統領ハーディングと、なにもしない「サイレント・キャル」クーヴァ―が続き、1929年10月24日、「暗黒の木曜日」と呼ばれる株式暴落が始まり大不況が起こりました。1931年までに4000以上の銀行が倒産、1933年には実質生産は3分の1減り、失業率は25%に達します。絶望が全米を支配する中、1932年に当選したフランクリン・デラノ・ローズヴェルトは政府が積極的に市場経済に関与する「ニューディール政策」で、公共事業や職業訓練等を積極的に行います。以上みてきたとおり、30年代のアメリカは20年代の好況から急転直下した不況のどん底にありました。『財産没収』のウィリ―のような、かつて華やかな生活を垣間見た貧しい少女は実際に数多く存在していたのです。ちなみに、前回少し言及したのですが、アメリカ南部には「名誉の文化」という特有の文化があり、テネシーの作品に大きな影響を与えています。これに関しては、東京公演時、上演前に私が行う解説トークで話そうかと思っていますので、ぜひおいでください。京都・愛媛・沖縄でご覧になる方で、もし気になる方がいらっしゃいましたら、サファリ・PのSNSで聞いていただければそこでもお答えします。

写真/サファリ・P 第3回公演『財産没収』より 撮影/堀川高志(kutowans studio)

 次回は、これまでほぼ論考がないサファリ・P独自の演技・演出について書きたいと思います。観劇してくださるみなさまの感想が「むずかしい」で終わらないように、どういうところに目を向け耳を澄ませばよいかを論じます。ご期待ください。

 

筆者:朴 建雄

ドラマトゥルク。演劇が必然的に抱え込む様々なあわいを活性化することに関心があり、創作過程と観劇体験の両方を深めるため合同会社stampの演劇製作に関わる。こまばアゴラ演出家コンクール2018実行委員会事務局長。2018年、クロード・レジ演出『夢と錯乱』の劇評により、ふじのくに⇄せかい演劇祭2018劇評コンクール最優秀賞受賞。

 

 

やってみる演劇【俳優編】現場レポート③

 第三回(10月6日)もやっぱり雨。家を出るときは曇りだったので「何とかなるか?」とバイクで茨木へ。ところが大山崎あたりからサラサラと降り始めた雨は止むどころか、高槻あたりで本降りとなり、「まあ言うてもすぐ止むやろ?」と合羽を着る判断が遅れた私はブラが透けるほどビショ濡れになった。もちろんブラはつけていない。講師がビショビショで現れたらみなさん不安になるに違いないので、誰もいない多目的ホールで服と髪を乾かすべく訳の分からないダンスを踊り狂った私を誰も知らない。

 今回のウォーミングアップで印象的だったのは「名前鬼」。これも私はよくやるのだけど、こんなに盛り上がったのは初めてじゃないかな? 二組に分かれて、一組は円を作り、もう一組がその円の中で名前鬼をする。鬼に触れられそうになったら人の名前を呼ぶ。するとその人が鬼になる。それを私はスローモーションでやるので、この円の囲いが重要になる。どこまでも逃げていけないように。
 何がそんなに盛り上がったかと言うと、びっくりするほどうまくいかなかったのだ。「えっ!?」って話なんだけど、このうまくいかないことがみなさんの思考と好奇心と探究心に火をつけたようだ。原因を究明する人、なぜこんなことができないのかと笑いが止まらなくなる人が続出する。それでも繰り返すミスに全員の笑いが止まらなくなる。名前を呼べばいいのに恐怖に引きつった顔で逃げ惑う。「名前、名前」と外野から声かけされても「分かってるけど〜!」と言いながら一向に名前を呼ばない。ついに名前を呼んだと思ったら外野で円を作っている人の名前だったり、とスラップスティックが止まらない。「膝が痛いのでこのゲームはおやすみします」と言っておられた方も「やっぱりやります!」と参加の意志を表明された。「なぜこんなにできないのか、自分の身体を通して知っておきたい」と思われたようだ。
 振り返りでは、私が先導するまでもなく意見が飛び交った。スローモーションがキープできないこと、名前が出てこないこと、動きはスローだけど鬼に追われる恐怖の感情はスローにならないのでしっかり取り出せること、名前を呼んでもその人が隣にいてすぐタッチされたこと、逃げながらも誰がどこにいるのか見ておく必要があること、色んな発見を聞かせていただいた。いつも盛り上がるんだけど、ここまで「このゲームをやった意味」みたいなものを実感できたことは初めてだったのでびっくりした。楽しいだけではない何か興奮というか熱というか、そういったものが立ち込めた稀有な体験となった。

 そしていよいよ台本にかかる。お休みが出るかもしれないので人数をどうするか非常に悩んだ挙句、考えても仕方ないので人数分の台本を準備した。5人出演の賃貸住宅斡旋所の話と同じく5人出演のコンビニの話、もう一つは4人出演の待つ人・待たされる人。全て私が過去のワークショップで使うために書いたもので、5分程度のランタイムでそれなりに演劇の楽しさを感じられるものになっている。知らんけど。
 ランダムにチーム分けして、稽古開始。まずは順繰り全ての役を読んでみる。色んな役をやってみて、しかも何回もみんなで読んでみることで作品理解を進め、役の役割を感じていく。その上で誰がどの役を演じるかみなさんに決めていただく。この辺は全部合意形成のワーク。私が決めてお伝えするのが早いし、揉めないけど、そこは時間をかける、敢えて。でもチーム分けやどの台本をやるかはランダムにパッと決める、敢えて。何を合意形成し、何を偶然に委ねるのか、それは何を大切にし、どんなワークにしたいのかで変わってくる。それは都度都度見極めて、決めていかなければならない。

 すごい楽しそうだ。どのチームも笑いと思考がないまぜになったいい集中力で創作が進んでいる。戸惑いもなく、やってみたかったそれを今現にやっているという喜びが溢れ出しているといった風。休憩の声掛けをしても「邪魔しないで」と言わんばかりに創作が続く。配役が決まり、それぞれに委ねられている情報を決めていく。立って稽古するチームも現れた。私は順に回って、決めて欲しい情報や台本の解釈の多様性、役の解釈の多様性をお話しする。みなさんの好奇心はどんどん上がっていく。椅子しかないけど、舞台装置をどうするか、客席を設定した上で決めていってもらう。文字で書かれた平面的な情報が、舞台装置を通して、みなさんの身体・声・解釈を通してどんどん立体化していく。演劇が立ち上がっていく。
 最後は各チームに発表してもらった。稽古もそんなにできていないし、私の手もほとんど入っていない状態だけど素晴らしい発表だった。フリートークなどから丁寧に進めてきたワークが花開いた瞬間。演技経験などなくても、相手に話しかけるという日常の経験から会話が紡がれていく。演技をするというのは記号化ではなくこういうことにしたいんだ、という私の意図が形になった瞬間だった。それぞれに違う台本に挑戦しているので人のを観るのも刺激的で、笑いもたくさん起こり、とても幸せな時間だった。

 次はこれをベースに稽古を重ね、最終発表をする。火がついたみなさんの創作意欲を消さないように、この種火を大切に育てるためのお手伝いをしたい。私自身の役割と存在意義をはっきり自覚できたワークとなった。次の現場へ向かうバイクの上でそんなことを考えていた。

高杉征司

やってみる演劇【俳優編】現場レポート②

 第二回(9月29日)は台風の中、始まった。直撃はどうやら翌日らしいのだが、朝から雨で不穏な風がヒョーヒョーと鳴いている。それはもうヒョーヒョーと。その影響もあってか二名お休みだったが、その代わりと言っちゃあなんだけど第一回を体調不良で欠席された方が来られた。前回欠席な上に今回も渋滞に巻き込まれて遅れて来られたのだけど、まるで「ずっといましたよ」と言わんばかりに馴染んでおられる。飄々と。それはもう飄々と。すごい! 鉄人! こうやって参加者の皆さんに助けていただきながら第二回も進んでいった。

 まずはストレッチからの肩叩き。朝10時からのワークなので身体を起こしてやる必要も感じるし、コミュニケーションの一環として他人との接触を積極的に促すという狙いもある。ただこれは実はリスキーで、知らない人に触れる・触れられることに強い抵抗を感じる方もおられる。誰でも多かれ少なかれ抵抗はあるけれど、それを乗り越えた効果を期待しているのだけど、乗り越えられない場合もある。数年前、高校演劇部の合同合宿の講師をやらせていただいた時に、この肩叩きをやって一人の女生徒が泣き出してしまったことがある。もちろん「嫌なことはやらなくていいよ」と前振りしているのだけれど、「これ、嫌だからやりません!」とみんなの前で言うのは大変勇気のいることで、楽しい空気のワークショップにも同調圧力が働くのだと思い知った。現に今回も最終日の最後に「すごい楽しかったけど、知らない人にいきなり触れるのだけはキツかった」とお一方が言ってこられた。言わないまでも感じている方もおられるはずで、このへんは慎重に、丁寧に進めていくべきだ、と改めて考えさせられた。
 肩叩きが始まってもまだ少し空気は重かったのだけど、お一方が「嗚呼、めっちゃ気持ちいいです!」と言ったことで場が一気に緩んだ。なんということのない一言。でもこれが揉んでいる人にとってどれだけ嬉しいか、そして二人の関係がどれだけ改善するか、それがどれだけ周りに伝播するか! 本当に一瞬で空気が変わった。私も妻に「ありがとう」と言おう。ご飯作ってくれてありがとう! 洗濯してくれてありがとう! 洗い物は私がしよう! ゾウリムシのような俺のそばにいてくれてありがとう! 一方的に大満足。スッキリしたところで次に行こう!

 人間知恵の輪〜連想ゲーム〜ビンバンボイン。連想ゲーム以外は前回と同じ。刺激の差し替えも大事だけど、同じことをやるのも実は大切。「お楽しみのあれ」になるし、やる度に向上していき満足度も上がりやすい。講師が「みんなが飽きないように色々やらなきゃ!」と強迫観念に苛まれたら良くない。これはこの後にやる「シーン作り」でも出てくるキーフレーズなんで、今は詳しくは書かないことにする。とにかく今回も皆さん、ゲームを通して「即興的に」「その瞬間その場にいる」ことを実践してくださった。連発するミスとその都度沸き起こる幸せな笑いがそのことを物語っている。

 ジェスチャーゲーム。いつもは二人一組で、要は一対一で同時多発的にやるのだけど、今回は趣向を変えて、一人が前に出て、全員に向かってジェスチャーすることにした。そうしたことで思いがけないメリットがあって、それは難しいお題も全員で力を合わせて正解できる、ということ。全員が思いついたことを次々口にする回答形式を取ったことで、お互いにヒントになり、結果「東洋の魔女」とか「世界の中心で愛を叫ぶ」などまあまあの難易度のものを次々正解していった。もちろんジェスチャーした方の功績もあるけれど、その向こう側が見えた気がした。
 言葉が使えないことで「伝えたい」気持ちがより強くなる。伝わらないもどかしさが思考をめぐらせ、身体を突き動かす。我々が普段如何に言葉に頼っているかということなんだけど、言葉の意味自体はそんなに重要ではない、というのはまた別の話。とにかくコミュニケーションの基本となる「相手に伝えようとする」「相手を(分からないまでも)分かろうとする」ということを抽出してみた。このゲームでは良くも悪くも、言葉が使えないことで情報が記号化される部分があるのだけど、それのフォローは次の創作で行った。

 シーン作り。椅子をたくさん並べて「病院の待合室」を作り、そこに一人ずつ入ってくる。順番に好きなところに座り、ただ待っている、というワーク。大切なのは「ただそこにいる」こと。観ている人に何か伝えようとするのではなく、ただそこにいる自分を感じる。そして何もせず「そこにいる」。これができたら演劇はずっと楽しく、楽になる。
 最初は5人。順番を決めて入ってくる。どこに座るのか?そこでまず一つ人間の習性が見える。人がいるブロックは避ける。できれば端に座る。人がいても背中合わせなら座れる。どのブロックにも人が溢れてくると同性の側に行く。一人一人、なぜそこに座ったのかが分かるので、観ている人から「あー」なんて声が漏れる。全員が座ったらあとはそのまま放置。3分。みんな特に不安になることもなく、じっとそこにいた。と思ったが、終わってから聞いてみると「これいつまで続くんだろう?」「早く何か指示が出ないかな?」と不安になったようだ。そう、これが「表現の強迫観念」なのだ! 観ている人へのサービス精神から来る不安に突き動かされて何かすると、途端に「そこにいる人」としての説得力を失う。もちろん演劇はリアリティがなくてもいいし、楽しませるために何かしてもいい。でも前提として、何もしていなくても思考は動いていること、生理的に他人を感じて距離感を測っていること、刺激に反応すること、などを知っておきたい。演技も物語もサービス精神もその先にあるのが良かろう、というのが基本的な私の考え方。そのためにこんなワークをやってみる。
 じゃあ、どうすればこの場が動き出しますかね?と聞いてみる。会話が起こるキッカケや病状が分かる状態をみんなで話し合ってみる。「咳き込む」「腰痛で座れない」「ずっと待った挙句に、いつもこんなに待つんですか、ここ?」「地震で少し揺れる」など面白い意見がたくさん出る。ではそれをやってみよう。でも無理やりはやらない。飽くまでも我々が日常を生きる感覚を持って。みんな特別なことはしていない、でも少しずつ人によっては病状の見当がつく。過度な腰痛をいたわる絡みが起こる。そこに交わらない人もいる。私が手を叩くとグラッと揺れる。携帯で震度・震源を確認する人、「怖いですね」と話す人。少しずつシーンが動き始める。そんな病院の待合室を見た事があるか?と言われれば、まあないのだけれど、それぞれが「人間としての生理」に基づいて行動しているので全然不自然じゃない。リアルなのにドラマチック。創作のベースになるものを感じてもらえたんじゃないかと思う。感想を聞いてみると「(行動を起こした)○○さんに全部持っていかれましたよ」なんて意見が出たので、私の所感をお伝えした。腰痛に苦しむ人がいたとき、助ける人がいれば助けない人もいる。地震を契機に話す人もいれば話さない人もいる。むしろ日常では「出来るだけそういう動きに関わらないようにする人」が多い。そういう人がこの場面のリアルを担保するのだ、と。あなたの存在が最高に「効いていた」のだ、と。心の底からそう思った。

 次回からいよいよ「脚本を読んでみる」。

高杉征司

「財産没収」ドラマトゥルギー・ノート その一
〜テネシー・ウィリアムズという劇作家について〜

 サファリ・Pのドラマトゥルクを務めております朴といいます。ドラマトゥルクというのは、ドラマトゥルギーの担当者のことです。ドラマトゥルギーとは、「作劇術」の意で、かつては戯曲の書き方を指しましたが、戯曲以外の要素が大きくなってきた現代の作品においては、その意味が上演までの創作過程全体のことに広がりつつあります。この変化に対応し、もともと劇作家が兼ねていたドラマトゥルクの仕事は企画制作(題材や戯曲の選定、編集)・創作過程(稽古場での意見交換)・観客受容(広報や解説)にまたがってきています。

 今回このドラマトゥルギー・ノートでは、サファリ・P 第4回公演『財産没収』のドラマトゥルギーを三つの要素に分けて記していこうと考えています。具体的には、作者テネシー・ウィリアムズ、『財産没収』が書かれた時代背景、サファリ・Pの演出・演技の方法論に関して書いていきます。今回は、劇作家テネシー・ウィリアムズと彼にとって『財産没収』がどのような位置づけの作品なのかについて論じます。


 写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 テネシー・ウィリアムズ(1911-1983)は、20世紀のアメリカ演劇を代表する劇作家です。本名はトーマス・ラニア・ウィリアムズ三世で、「テネシー」は本格的に劇作を始めた青年期からの筆名でした。彼に並ぶアメリカの劇作家としては、ユージーン・オニール(代表作:『楡の木陰の欲望』『夜への長い旅路』、ノーベル文学賞受賞者)、アーサー・ミラー(代表作:『セールスマンの死』『るつぼ』)、エドワード・オールビー(代表作:『動物園物語』『ヴァージニア・ウルフなんて怖くない』)などがいますが、ご存知でしょうか?テネシーの代表作の多くは1940~50年代に書かれ、例えば『ガラスの動物園』(1944)『欲望という名の電車』(1947)『熱いトタン屋根の猫』(1955)は、日本でも盛んに上演されています。同じテーマを何度も描き続ける作家として知られ、1960年代以降は批評家にマンネリだと酷評されながらも独自の深化を遂げた作品を書き続けましたが、生前は評価されず失意のうちにアルコールとドラッグとセックスに溺れた晩年を送りました。同性愛者であったことでも知られており、同性愛解放運動が高まりを見せていた1975年に出版された『回想録』では同性愛経験を赤裸々に語っています。この本は当時ベストセラーとなりました。彼の戯曲の主な題材は、出身地であるアメリカ南部(この地域独自の文化は次回詳述します)や統合失調症を病み生涯を精神病院で送った最愛の姉ローズでした。彼の作品は呻き声にも似て、喪失の苦しみと再生への欲望に彩られています。

写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 今回上演される一幕劇『財産没収』は、もう一つの一幕劇『解放』とともに、『アメリカの情景』という題名で、1941年6月19日に、ニューヨークで出版されました。当時テネシーは30歳で、彼にとって初めての著書出版でした。この『アメリカの情景』には、「人々の風景」(二本のミシシッピ劇)という副題もつけられています。当時は『ガラスの動物園』や『欲望という名の電車』のブロードウェイ公演による大成功を収める前で、テネシーにとっては苦難の時期でした。1940年に初めてプロ劇団のために書いた作品『天使のたたかい』は試演会での不評によりブロードウェイ公演中止になり、ハリウッドに一時的な職を得たものの「ハリウッドの虫けら」として悪戦苦闘していたのです。青年期以降の彼はひとところに長く住むということがなく、アメリカ各地への放浪を繰り返して執筆していました。今回のサファリ・Pによる『財産没収』の演出は、そんな当時の彼の姿を偲ばせるものになっています。


写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 ちなみに筆者は大学院でこの作家を研究しており、修士論文のテーマは未邦訳の後期作品群でした。ウィリアムズの後期作品には『ガラスの動物園』の続編ともいえる自伝劇『ヴィユ・カレ』『曇ったもの、澄んだもの』や、『グレート・ギャツビー』で著名なスコット・フィッツジェラルドと妻ゼルダに自分と姉の関係を重ね合わせた亡霊劇『夏ホテルへの装い』など興味深い作品が多くありますが、残念ながらいずれも未邦訳です(そのうち筆者が自分で翻訳しようと思っていますが)。これらの作品に関する最新の研究成果、テネシーの生い立ちや姉ローズとの関係性についての詳細な記述を盛り込んだ充実した解説文を公演で販売するプログラムに寄稿しておりますので、ご興味のある方はぜひ劇場でお手に取っていただければ幸いです。

 

筆者:朴 建雄
ドラマトゥルク。演劇が必然的に抱え込む様々なあわいを活性化することに関心があり、創作過程と観劇体験の両方を深めるため合同会社stampの演劇製作に関わる。こまばアゴラ演出家コンクール2018実行委員会事務局長。2018年、クロード・レジ演出『夢と錯乱』の劇評により、ふじのくに⇄せかい演劇祭2018劇評コンクール最優秀賞受賞。

【高杉征司 脚本・演出情報】高槻シニア劇団WakuWaku「一号棟一階南角にその保健室はある」

 三年間の継続事業として始まった高槻シニア劇団WakuWakuが節目の三年目を終えようとしている。その一旦の集大成として「一号棟一階南角にその保健室はある」という作品を上演します。

 一年目は、俳優が舞台上に生きている実感だけを求めて「そっとふれてみる」という作品を創作しました。ドラマはほとんど書かず、とはいえお客さんが退屈しない程度には物語を織り込んで、日常のありふれた場面を切り取ったような作品でした。

 二年目は、先日劇団紙ひこうきで再演した「遠くに街がみえる」を上演。変わりゆく街並み、移ろう風景を当てどころに、人間の老いについて考えた作品です。一年目よりもドラマの要素をグッと増して、俳優さんにとってもやりがいのある作品だったと思います。

 そして三年目の今回は、一幕劇に挑戦します。場所は、とある公立中学校の保健室。場面転換はなく、舞台上を流れる時間は全編を通して客席に流れる時間と一致することになります。時間も場所も飛んでいくダイナミズムが舞台の醍醐味だとしたら、時間も場所も飛ばない生っぽさもまた舞台の醍醐味に違いないのです。俳優さんもやりがいがあるのでは、と思います。じっくりと「そこにいる」ことに集中する。変化もリアルタイムで、そこで起こったことに反応し、変化する。舞台上で。70分。「やりやすい」はずなんだけど「どうにも難しい」この試み。三年目ですからね、挑戦しなければ!

 内容はというと、放課後の保健室に先生が集まって、生徒の悪口を言っている、ということなんだけれども、それはそんなに陰湿なものではなく、それが人間だ、というべきものです。文化祭での教師の演し物について話し合う中で、見え隠れするそれぞれの思惑、劇中劇、揺らぐ「存在」。
 「存在」とは? という哲学的な問いに私ごときが解を見いだせるわけもなく、しかし思考を停止したり放棄したりする気にもなれず、悶々とした日々を過ごしています。この肉の塊こそが「私の存在」であるのか、それとも肉体は視覚的なものに過ぎず「本当の」私という存在は肉から溢れ出し、中空を漂っているのか・・・ここに来て新たな問題が・・・「本当の」って何だよ!? そんな、プラトンの言う「イデア」のようなものは果たして存在するのだろうか・・・
 話を手触りのあるところに戻しましょう。俳優に限らず、人はみな演じていると考えられています。言葉遣いや声のトーンは職業や立場によって変わりますし、他者との関係性の中でも変化します。しかし、我々は一般的に「演じている」という自覚はありません。例えば芥川賞作家の平野啓一郎氏は「分人(ぶんじん)」という造語で、そんな「私」というものを体系化しました。関係性や環境に応じて様々な顔を見せるのが人間であり、その一つ一つが分人であり、その総体が「私」なのだ、と。その内の一つが「本当の私」なのではなく、全て「本当の私」であり、その総体が「私」なのだ、と。

 「私」が何なのか、私には見当もつきません。この肉体のことなのか、そこに宿った魂のことなのか。プラトンのいう「イデア」のような真実在があるのか定かではありませんが、分からない以上、ここに実在する「私」を受け入れて、生きていこうと思うのです。
 皆さんのご来場をお待ちしています!

高槻 de 演劇 秋のプログラム2018
高槻シニア劇団WakuWaku第3回公演
「一号棟一階南角にその保健室はある」

脚本・演出:高杉征司

先生は今日も忙しい。

ある公立中学校の保健室。
文化祭の演し物の準備をすべく先生たちが集まって・・・来ない。
そう、先生は忙しいのだ。

「これこそが理想の授業」「なんの、生徒との距離が近すぎてよ」「そもそも『山田』ってほんとにいるんですか?」「財布がない、財布がない」
そう、先生だって色々なのだ。

教師ってなんだ、生徒ってなんだ、教育ってなんだ、そもそも私は誰なんだ。答えなんてないけれど、それでも先生は前を向く。今日もいつも通りの日常。
人知れず彼らを見つめる「二つの目」があることを除けば。

【日程】
2018年10月27日(土) 11:00 / 15:30
      28日(日) 13:00 ※開場は開演の30分前

【会場】
高槻現代劇場 305号室
〒569-0077 大阪府高槻市野見町2-33

【チケット】
一般:1,500円 高槻文化友の会:1,000円
50才以上/25才以下:1,000円

【チケット販売】
高槻現代劇場 072-671-9999(10:00〜17:00)
webでお申し込みの方はこちら

主催:公益財団法人高槻市文化振興事業団
企画協力:特定非営利活動法人劇研

やってみる演劇【俳優編】現場レポート①

 「何か始めてみたい人のための体験講座」と銘打って、茨木クリエイトセンターで行われたワークショップ(全4回)が終わりました。合同会社stampの主催事業(共催:公益財団法人茨木市文化振興財団)としてかなりの責任感を持って臨んだのですが、結果的に本当に素敵な時間となってホッと胸をなで下ろしています。参加者のみなさんと共催いただいた財団さんへの感謝の気持ちでいっぱいです。

 第一回(9月22日)は緊張の中、始まった。
 外は土砂降りの雨。秋の気配も強く漂い始めた肌寒い気候が緊張感に拍車をかける。私自身かなり緊張していたのだけれど、少しでもほぐそうと始まる前からみなさんに話しかける。参加者が子供の場合はこちらの質問に対して単語で答えが返ってくるだけなのだが(それがまたかわいいのだが)、大人たる今回の参加者のみなさんはどんどん会話を紡いでくださる。さすがのコミュニケーション力!

 導入のお話だけして、すぐに「人間知恵の輪」でお互いに関わり合っていく。自己紹介からゆっくり助走していくのもいいけど、私は腰が重くなるのを嫌って、まず立つ。そしてフィジカルから入っていく。自然と会話が生まれ、相手を視認し、接触を試みる。少しずつ場が緩んでいく。「握手回し」をしながらの「自己紹介」や「立ち座り」、「ビンバンボイン」などゲームを通して、楽しみながら俳優に必要な感覚を疑似体験していただく。マルチタスクに苦しみ、刺激に対するレスポンスに驚くことでどんどん笑顔の輪が広がっていく。必然、成功することは目指すがそれが全てじゃないこと、失敗は挑戦の先にあること、失敗するとみんなが笑ってくれて場の空気が極めてよくなること(失敗はギフトであること)を感じていく。それがみなさんのコメントとなって現れる。

 「フリートーク」。4〜5人が一組になってただトークを楽しんでいただく。
 最初の組は「ハロウィン」について。ジャーマンヘヴィメタルの「Helloween」ではなく、イベントの「Halloween」についてであることは言うまでもない。お互いの経験や知識に基づいた所感を交互に話しながら、相手の意見に立ち入っていったりのクロストークに発展し、とても面白かった。ポイントは「観ている人」がいること。ただ話しているだけなのに、これだけで一つ演劇が立ち上がりそうになる。
 次の組は、「信号無視」について。誰もいない見晴らしのいい交差点を歩いていて信号無視をするか否か。ルールとマナー、モラルなどが関わってくるので少し発言に責任が出てくる。ここはドキュメンタリーの面白いところ。しかしディベートにして、相手の意見に納得したら鞍替えするというルールを付け足すと、さっきまでの淡々とした会話が少し熱を帯び、これもある意味の演劇性を付与される。
 次は、同じ「信号無視」の話を「立場を入れ替えて」行った。信号無視する人は「しない人」として、しない人は「する人」の立場で話す。飄々と話す人、話せなくなり黙る人、ルールの抜け道を探す人、それぞれの対応が興味深い。役というペルソナを被る演劇性を疑似体験。それぞれの対応がそれぞれの役作りの原型なのかな? とほくそ笑む。
 最後は、「時限爆弾」。紙に「赤い線」と「青い線」を書いて、ハサミと共に渡す。間違った線を切れば爆発します、と伝え、観ている人だけに「切れば爆発する方の線の色」をお伝えする。で、ヨーイスタート。演劇をやったことのない人たちがその設定を受け入れて、どんどんお芝居を始める。爆発の緊張感。60秒という時間制限がその緊張を助長する。発話が変わる。笑いも生まれる。それぞれの経験の中からどっちを切るべきかのディベートも始まる。喧嘩も始まる。結果的に「青い線」を切った彼らは激しく「爆死」したのだけれど、素晴らしい「見世物」だった。実際に「線を切る」というアトラクション感も楽しんでいただけた要因かな、と感じる。

 ワークが終わると雨も上がっていた。雨の中 緊張と共に始まったワークショップも、終わってみると柔らかい空気に包まれていた。みんな笑顔だった。来週が楽しみだ、なんて思っていた。

高杉征司

高杉と往く「財産没収」2018 稽古の旅①

 財産没収の稽古がすっかり始まっている。再々演ということは三度目のお披露目となるのだからすんなり進行するのかと思えばそうでもなく、やはり産みの苦しみに直面している。作品を創るというのはつまりそういうことなのだ。

 三年前、初めてこの作品に取り組んだときは本当に往生した。ひと月半、期間は短いけれど、毎日朝から晩まで稽古場に缶詰状態で「あーでもない、こーでもない」と知恵も身体もひねり続けた。上手くいっていると思っても辻褄が合わなくなったり、気がつけば何を目指していたのか分からなくなり迷宮を彷徨い歩く日々。そんな苦労の甲斐あって、それなりの手応えを持って利賀演劇人コンクール2015に参加し、優秀演出家賞一席をいただいた。と、そこまでは良かったが、2017年夏、せっかくそれなりの評価をいただいた作品なのだから関西でも上演し、地元のお客さんに観ていただこうと再演プロジェクトが始動し、稽古が始まってみると、それはもう何をどうしたらいいのかてんで分からないことになっていた。動画を見て、その通りにやってみるのだけど、なぜ自分がそんなことをしているのか? さっぱり分からない。形だけはなぞれるのだけれど、演技の根拠もそこにいる意味も感情も概ね思い出せない。何度かやれば湧き上がってくるだろうと試みるも、やれどもやれども模倣しているだけの私がいる。中身なんて何もない、形骸化した「死に体」だけがそこにある。

 その原因と思われるのは、「圧倒的な情報量」。本来演劇は「言葉の意味」を伝えることに終始しない。言葉とは反対の心持ちでいるかもしれないし、そう言わざるを得ない状況こそが大切かもしれない。同じ意味でも発話の仕方によって人格や関係性が見えてくる。そんなことが、この豊富な情報こそが演劇の面白さであることに疑いの余地は(あまり)ない。そこへきてこのサファリ版「財産没収」は情報を限定しない豊かさに溢れている。ポエティックと言ってもいい。その女は郡の調査官かと思えばウィリーの姉「アルヴァ」であり、ともすれば作者テネシーの姉「ローズ」でもある。はたまた「姉」という概念そのものとしてフラフラ歩いているようにも見える。その様はギリシャ喜劇をも彷彿とさせる。テネシーだと認められるその男は、時には作中の登場人物ウィリーであり、芸術・創作に苦しんでいるかと思えば、社会との軋轢に苛まれ、姉を憂いたかと思えば、今度は恋人との関係(ジェンダーも含め)に怪気炎を吐く。テネシーの恋人と思しきその男は、ある時は作中の登場人物トムであり、またある時はテネシーに立ちはだかる「社会」そのものであり、創作に手を差し伸べたかと思えば、痴情の果てにテネシーをぶん殴る。人にしたってそんな塩梅なのだけど、そこへきてモノまで加わってくる。テネシーが「財産没収」を記している赤いノートは、作中の赤い凧であり、赤い絹のチョコレートの箱であり、芸術・創作の苦しみ・喜びの権化である。「腐ったバナナってなんだ?」「プレストン先生って誰だよ!?」と、もう触り始めたらキリがない。それらが時に姿・意味を変え、時に重複して、舞台上に降り積もっていく。演出も俳優もそれらのおびただしい情報を精査して、場面ごとにいるものいらないものを峻別していく。当然綺麗に整頓はできないので、その情報の湯船にどっぷり浸かっている感じ。やるたびにイメージが変わる。やっている人間からしてそうなのだから、観ている人は尚更だろう。そんな「概念」と「存在」の「ゆらぎ」「不確かさ」「重複」を出来るだけシンプルに料理する。焼き魚は塩で喰らうのが一番うまい。まあ・・・これは個人的嗜好だ。

 そして今回、やはり同じ現象を楽しんでいる。前回同様に立ち上げてみて、それが形骸化していようがひとまず立ち上げて、不具合も新たな可能性もみんなひとまとめに探っていく。出演者は3人中2人が代わった。そりゃ苦労だってひとしおだ。だけど稽古を重ねるほどに、言葉を紡ぐうちに、パフォーマーの立ち方も変わってくる。作品の密度も詰まってゆく。字義通り「無限の可能性」を感じる。嗚呼、私はこんなことが楽しくて演劇に邁進しているんだった。そんなことを思い出させてくれるこの作品。再演すればするほどに、面白く、分かりやすく、刺激的になっている。掘る作業は苦しいけれど、掘れば掘るだけ水が湧く。作中で、創作に苦しみ、創作に歓喜するテネシー・ウィリアムズの姿は、まさに稽古場で苦悩し、悦んでいる私たち自身の姿なのだ。