『怪人二十面相』創作・思考プロセス#1

○『怪人二十面相』、そして江戸川乱歩について

 江戸川乱歩の『怪人二十面相』と聞いて何を思い浮かべるだろうか。サファリ・Pで『怪人二十面相』をやると聞いたときの私は、乱歩の短編集は読んだことがあり、この作品もタイトルは知っているけれども、具体的にどういう話なのかはよくわからないという状態だった。二十面相という怪盗が名探偵の明智と勝負するというぼんやりとしたイメージだけがある。筆者もタイトルも知っているけれども実際どういう話か知らないというのは、古典にはよくあることかもしれない。例えば、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』やドストエフスキーの『罪と罰』等々。乱歩の受容は世代によってかなり違うようで、サファリの山口さんや高杉さんは昔読んでワクワクした記憶がはっきり残っていると言っていた。位置付けとしては、二十代後半の私世代が小学校時代に読んだ『かいけつゾロリ』や『ズッコケ三人組』シリーズに近いのだろうか。ただ、乱歩は児童文学者ではないという点が違う。彼は元々大人向けの小説の書き手だった。

 

『怪人二十面相』が書かれた経緯を確認してみよう。光文社『江戸川乱歩全集 第28巻 探偵小説四十年(上)』によると、少年倶楽部の編集者から熱烈な依頼があり、依頼自体は前々からもあったことだしなんとなく、という流れだったようだ。題材がなくなって行き詰まるという点では、以前サファリが『財産没収』で取り組んだ作家、テネシー・ウィリアムズに似ているともいえる。テネシーは作家としての成功を収めた後も書き続けたが、同じモチーフの戯曲ばかり書いてマンネリに陥っていると批判され、アルコールと薬物に溺れた悲惨な後半生を送った。探偵小説作家にとって、トリックがマンネリになってしまうのが致命的なのは明らかだ。乱歩の題材が尽きるサイクルはテネシーよりもっと早かった。彼は数年単位ですぐに行き詰っては放浪し、執筆を再開することを繰り返した。推理小説のトリックのネタがなくなると幻想・怪奇小説へ、幻想・怪奇小説の題材が尽きると少年向け小説へと乱歩の執筆ジャンルは変わっていった。乱歩自身、以下のように述懐している。

 

「私はなんでも初めよし後悪し、竜頭蛇尾の性格で、昔やった職業でも、入社そうそうは大いに好評を博するのだが、慣れるにしたがって、駄目になってしまう。飽き性というのであろう。小説でも同じことで、大した苦労もせず、処女作が好評を博して、初期は甚だ好調であったが、すぐに行きつまり、その転換に、やけくそで大部数発行の娯楽雑誌に書いてみると、これがまた大当り、しかしそれも結局は竜頭蛇尾で、このころは大人ものがそれほどでなくなっていたので、又々転換という心境であったかもしれない。ところが、この少年ものの第一作がまた、例によって非常な好評を博したのである」

 

〇演出家の思考

ちなみに、演目が『怪人二十面相』になった理由は、演出の山口さんの勘だった。他にも色々と案は出ていたので、これに決まった時は正直かなり意外だった。今までの作品とはかなりテクストの性質が違うように思えたからだ。これまでのテクストは、『財産没収』にしろ『悪童日記』にしろ書き手の生い立ちを反映したもので、恐ろしいまでの情念が込められていた。それに比べて『怪人二十面相』はいかにも軽いように思える。今回始めて読んでみて、わかりやすい悪党と正義の味方という区分、現実には不可能としか思えない子供騙しなトリックのオンパレードにいちいち心の中でつっこんでしまった。

 

4月始めに、演出の山口さんから考えていることを聞いた。『怪人二十面相』から出てくる言葉は、「わくわくする」「見てみたい」ではなく、「虚をつかれる」「はっとする」だという。この作品では時代と社会の空気が犯人を作り、オウム真理教の事件がそうであったように、周りの忖度の結果、首謀者の望み以上のことになってしまうという感覚がある。その意味で『怪人二十面相』にあるモチーフは、金持ちをやっつけたいというものだ。この小説は表面的には単純な勧善懲悪の話に見えるが、江戸川乱歩の他の小説は勧善懲悪ではない。この小説では「子ども向け」という立ち位置的にそう見せかけているに過ぎない。

 

「怪人二十面相」は大衆の結託によってできる実体がない存在だ。本部のない組織はないので、無理はあるが、「怪人二十面相」は大衆の欲望の具現化として、その都度その都度金持ちを連携して懲らしめる。1930年代当時の日本は金融恐慌のただなかで、金持ちと庶民の格差が大きかった。それを鮮やかに飛び越える痛快さがこの作品にはある。ただ、ふつうに読めば読者は二十面相には肩入れせず、明智に感情移入する。大衆が迎合するものを持っている一方で、二十面相はジタバタする。明智を立てるために、彼のやることは思い通りにはいかない。技を掛け合うが、ちょっと明智が上という感じになってしまう。もしかすると、明智のほうが二十面相より面白いかもしれない。明智は二十面相よりずっとクールな感じで、みんなの憧れのヒーローだ。変装したり潜入したり、技は二十面相と同じだが、ジタバタはしない。また、小林少年は、明智と奥さんの家に住んでいるが、実際のところ子どもではない。彼は小型の明智で、読み手の子供が感情移入するために存在している。しかし、閉じ込められて「ひとねむり」するように、常人ではない。さて、この小説、どうすれば面白い舞台にできるのだろうか。

 

〇死と欲望という通底音

今までのテクストと違う、と書いたが、『怪人二十面相』単体にこだわらず、江戸川乱歩がどういう書き手であったのかに注目すると、サファリのこれまでの作品との連関が透けて見えてくる。サファリの作品に共通するモチーフを考えてみよう。まずもってそれは死と欲望だ。より具体的に言えば、迫りくる死への恐怖とそれに拮抗する力としての性欲である。『財産没収』と『悪童日記』どちらのテクストにも、登場人物たちを取り巻く死と、愛にも暴力にもなりうる混沌としたエネルギーが潜んでいる。私は、この死と欲望がサファリの上演のモチーフになっていると考えている。『財産没収』のウィリーは、姉の死に憑りつかれ、妄想の中で姉と一体化して亡霊のようにさまよう。『悪童日記』の双子は自分たちを押しつぶそうとする戦争の死と暴力に抗って、愛されたいという心を引きちぎって無関心を自分たちに強要し、身体を傷つけて痛みに無感覚になろうとする。

 

大多数の探偵小説は殺人事件を扱う。その点で死と欲望というテーマが常にそこにある文学ジャンルだと言える。しかし『怪人二十面相』は子ども向けなので、「二十面相は血を見るのが嫌い」という設定になっており、殺人は起こらない。ところで、探偵小説とは、どういう小説なのだろうか。それは、秘密を作り、暴く物語のことだ。小此木啓吾『秘密の心理』によれば、サディズムとは秘密を暴こうとする欲望であり、マゾヒズムとは、秘密を暴かれたいという欲望である。山口さんによれば、乱歩のテーマはSMで、人に見られてはいけないものを覗き見する興奮だという。彼女は乱歩の小説に見られたいのに見られたくないという欲望があるとも語っていたが、これは言い換えれば、この完璧なトリックを見せたい、だが見せると悪事が露見し、捕まってしまうという犯罪者の葛藤でもある。探偵小説はその歪な欲望を合法的に見せられるシステムだ。心の中に燻っている暴力や性欲といった混沌としたエネルギーを「文学」というオブラートに包んで吐き出すための発明とも言える。

 

〇自己療養する子どもたち

主要な登場人物が子どもであるという点も、これまでのサファリの作品に共通している。なぜ子どもなのか。それは、作者が自己形成を演じなおすために書かれたテクストだからだ。人間は子どものときに接した他者からできている。テネシー・ウィリアムズの『財産没収』の姉妹の関係、そしてウィリーとトムの関係は、明らかにテネシーの実際の姉ローズと彼自身との関係を反映している。アゴタ・クリストフは自伝『文盲』で、兄と過ごした戦時中の子ども時代の思い出の断片から『悪童日記』を書いたと記している。

 

人間を形作る他者は人間に限らない。乱歩の場合、それは小学生の時に読んだ黒岩涙香の翻案ものの怪奇探偵小説『幽霊塔』や、菊池幽芳の探偵小説『秘中の秘』だった。『財産没収』も『悪童日記』も『怪人二十面相』も、自分は何者なのかを書き手が問い、そういう自分がどう形成されたのかをたどるために子供時代に戻り、それを演じなおすために書かれているのではないだろうか。『江戸川乱歩全集 第30巻 わが夢と真実』所収の「わが青春記」と題したエッセイに乱歩はこう書いている。

 

「すべての物の考え方がだれとも一致しなかった。しかし、孤独に徹する勇気もなく、犯罪者にもなれず、自殺するほどの強い情熱もなく、結局、偽善的(仮面的)に世間と交わって行くほかはなかった。(中略)しかし、今もって私のほんとうの心持でないもので生活している事に変りはない。小説にさえも私はほんとうのことを(意識的には)ほとんど書いていない。」

 

「際立った青春期を持たなかったと同時に、私は際立って大人にもならなかった。間もなく還暦というこの年になっても、精神的には未成熟な子供のような所がある。振り返って見ると、私はいつも子供であったし、今も子供である。もし大人らしい所があるとすれば、すべて社会生活を生きて行くための「仮面」と「つけやきば」にすぎない。」

 

これらの文章を読むと、小説を書くという行為は、乱歩にとっては自分の「物の考え方」を反映した「仮面」を作ることだったように思えてくる。

 

また、「忘れられない文章」という以下のようなエッセイもある。「青年時代から現在までも、最も深く感銘しているのはエドガー・アラン・ポーの次の言葉である。「この世の現実は、私には幻――単なる幻としか感じられない。これに反して、夢の世界の怪しい想念は、私の生命の糧であるばかりか、今や私にとっての全実在そのものである」近ごろの作家ではイギリスのウォーター・デ・ラ・メイアの次の言葉が、これを継承している。「わが望みはいわゆるリアリズムの世界から逸脱するにある。空想的経験こそは現実の経験に比して、さらに一層リアルである」私は色紙や短冊に何か書けといわれると、これらの言葉をもっと短くして「うつし世は夢、よるの夢こそまこと」と書きつけることにしている。」

 

 ほかの誰とも違う存在、現実世界にいられない人間は、それでも生きていくためにそれぞれのわざを使って自分のための世界を作る。そういう人間のことを芸術家と私は呼びたい。「芸」「術」という言葉はふたつとも「わざ」という意味だ。そして「芸」には「植える」、「種をまく」という意味もある。自分が生きるためのわざが、他者の体や心に何かを植える、そこに芸術の喜びがある。

 

山口さんが敬愛する村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』に、「書くことは常に自己療養の試みに過ぎない」という言葉がある。探偵小説や怪奇小説を書くことは、乱歩にとって自分の欲望に向き合うための「自己療養の試み」だったのだろう。サファリで扱われる作家たち、そして山口茜という劇作家は、みな「自己療養」のため、他者に理解されない孤独の中で気が狂ってしまわないように、生きるための切実な方法として書いている。彼・彼女らはそこで生きていくための巣を言葉で編む。そしてその自己療養のありようを最もまざまざと見て取ることができる、乱歩の作家としてのキャリアの結節点である小説『陰獣』が、今サファリの『怪人二十面相』創作において大きな位置を占めはじめた。この小説には、秘密を作り、暴くこと、死と性欲、そして作家乱歩その人の姿がはっきりと書き込まれている。子どもとしての面が強い乱歩が現れている『怪人二十面相』と、大人としての面が強い乱歩が現れている『陰獣』を突き合わせ、どう接合するのかが今の稽古場の課題である。それは、乱歩の小説に通底する「秘密を作りたい、そしてそれを暴き暴かれたい」という欲望にどう向き合うのかということでもある。

 

今回は導入として『怪人二十面相』をめぐる書き手と読み手について概観したが、次回以降は、『陰獣』を紹介しながら稽古場で起きたこととそれに伴う思考プロセスを詳述していく。

サファリ・P 第6回公演『怪人二十面相』チケット発売開始!

 サファリ・P 2年振りの新作『怪人二十面相』のチケットが2019年5月22日、ついに発売となりました!

 その本当の顔は誰も知らない大盗賊「怪人二十面相」。予告状を送りつけ、厳重な警備をかいくぐり颯爽とお目当ての品を盗み出すそのやり口は、大胆不敵にして快刀乱麻! それはそれは痛快なのですが、「誰もその本当の顔を知らない」ということは、彼が彼であることを証明できないのであって、捕まえても捕まえても「あっしみたいな者があの二十面相だとでもお思いで?」と、いつだって別人なのです。無敵なのです。
 無敵の代償は圧倒的な孤独なのではないか? といらぬ心配をしてしまうのですが、そんな凡人の憶測などゆうに飛び越えて、巨人の肩の上から遥か遠くを見晴るかす。
 作曲家の増田真結氏を迎え、「光と音」、「身体と音」で織り成す、全く新しい『怪人二十面相』にご期待ください!

◉こちらは今年4月からの本稽古に先駆けて行われたプレ稽古の様子をまとめた動画です。
 本番までのつなぎにお楽しみください。
2018年5月11〜17日@森下スタジオ

公演詳細はこちら
チケット購入はこちら

佐々木ヤス子 サファリ・P入団のお知らせ


撮影:清水俊洋

 サファリ・P 第4回公演『財産没収(再々演)』、第5回公演『悪童日記(再演)』に出演した佐々木ヤス子さんがサファリ・Pに入団することとなりました。6月の『悪童日記』コソボ公演、8月の第6回公演『怪人二十面相』、10月の『悪童日記』瀬戸内国際芸術祭2019参加など今後のサファリ作品への出演も軒並み決まっていたのですが、いざ入団となると我々劇団員も感慨深いものがあります。技術もやる気も負けん気も人一倍の彼女の活躍にご期待くださいませ。


◉佐々木ヤス子コメント

 私にとってサファリ・Pは、夢を語れる勇猛さと、それを実現させるための堅実さ、(そして筋力トレーニングへのストイックさ)を併せ持つ劇団であり、強く心惹かれ、この度入団をお願いしました。
 今後はサファリ・Pの一員として、いつかサファリ・Pが世界の演劇シーンを牽引していけるような劇団になるために頑張って参ります。(そして理想の筋肉を手に入れてみせます。)
 どうぞ宜しくお願い致します。

「やってみる演劇 2019」始まりました!

 合同会社stampが公益財団法人茨木市文化振興財団と組んでお届けするワークショップ「やってみる演劇」の第三弾がついに始まりました。今回もいずれの講座も早い段階からキャンセル待ちとなり、茨木に浸透してきたな、という予感が漂っております。

 今回は、脚本講座二つと俳優講座の計三講座が並走しています。どの講座も参加者のみなさんのやる気がみなぎっており、講師陣も大そう刺激をいただいております。
 何度も参加していただいている方、新規の方、それぞれがいいバランスでブレンドされていて、このままこの事業も演劇もどんどん茨木市に浸透していきそうだなあと実感しています。
 俳優講座では最終日の9月14日にミニ発表会を予定しています。今後もこの事業を続けていくつもりなので、気になる方は是非発表を観にいらしてください。

『悪童日記』コソボ公演【クラウドファンディング】が始まりました!

 サファリP 第5回公演では、2017年に初演し好評を得たアゴタ・クリストフ作『悪童日記』を2019年2月~3月に大阪・八尾、横浜、京都にて再演しました。この一連のツアーは各界から身に余る評価を頂いたのですが、国内での評判にとどまらず、この作品が縁でコソボ共和国プリシュティナで開催されるアートフェスティバル第7回FEMARTフェスティバルから参加招待を受けることとなりました。

 私たちは、今まであまりなじみのなかったコソボという国について調べ、大使館の方のお話なども伺い、先方の担当者とも何度もやり取りを重ねてきました。そしてアゴタ・クリストフ自身が体験し、この作品で描かれている分断のモチーフとなったハンガリー紛争のすぐそばの国、そしてほんの10数年前に国が分断されて独立して生まれた新しい国で、この演目を上演できるというチャンスに運命的なつながりを感じました。
 先方の熱い思いと、日本の様々な方の支援を受けて、サファリ・Pはフェスティバルの参加を決めました。まだ設立されて間もない若い国の勢いが、サファリ・Pのそれと似通っていました。これを逃せば、今後コソボの方と関わることはないでしょう。私たちはこの機会を逃すわけにはいきません。

 しかし演劇を上演するには、たくさんのお金が必要です。フェスティバル側は、非常に魅力的な条件を提示してくださっていますが、コソボとの物価の違い(コソボ共和国の平均月収は3万円程度)もあり、必要な経費をまかなうことは出来ません。すべて自腹でまかなうことになってもいい、という覚悟ではいるものの、コソボ共和国という国との付き合いを、1回きりのことで終わらせたくありません。今回のご縁が無ければ、日本人の劇団がコソボという国で公演を行うということは当分無いかもしれません。今回つながった細い糸を、これから先も持続可能な交流へと広げていきたいと考えています。

 サファリ・Pというカンパニーが、外国でのフェスティバルへの参加や、国内外での外国人アーティストとの共同創作等を行いながら、息長く活動を続けていくためには、必要経費を何らかの形でまかなう必要があると考えました。私たちは現在各種助成金の申請など自己資金の確保に奔走しています。その結果左右されること無く、今回のプロジェクトを成功させたいと考え、この様な形で広く支援を募ることとなりました。もちろん助成金や自己資金の獲得状況によって、目標金額の設定を変更することを予定しています。

 私たちは、このフェスティバルに参加することで、今後観客の皆さんに多くを還元することができると確信しています。ぜひ、ご支援をよろしくお願いします。


◉ご支援いただける方はこちらよりお願いいたします。
(各界からの応援メッセージや我々の想いが掲載してあります。それをお読みいただくだけでも嬉しいです)

 

「やってみる演劇 2019」 予約受付開始!

 本日4月2日 9:00〜 「やってみる演劇 2019」の予約受付を開始いたしました!

 毎回、募集がかかるとすぐに定員に到達し、キャンセル待ちになる合同会社stampの人気企画「やってみる演劇」。今年もやります。しかも今まで以上に充実の内容でお届けします。
 関連企画も合わせると、講師は四人。脚本編では「山岡徳貴子」さんと「大内卓」さんにご登場いただきます! ワクワクが止まらないラインナップ! 実力派で個性豊かなお二人のワークをご堪能ください。俳優編は高杉征司、関連講座「脚本を読む会」は山口茜と合同会社stampのメンバーがナビゲートします。

 売り切れ必至のこの企画。早めのご予約をお勧めします。そして講師陣一同、みなさんのお申し込みをお待ちしております!

ワークショップ詳細・お申し込みはこちら

トリコ・A 12月公演に向けた読み合わせ稽古②

 3月27日と4月1日それぞれ午前と午後の部を開催しまして、合計四区分、述べ40名以上の俳優さんにお集まりいただきました。みなさん、お忙しい中お力をお貸しいただきありがとうございました!

 おかげさまで心から「やってよかった」と思える成果がありました。生身の俳優が読むことで立体的に立ち上がる戯曲、色んな俳優に色んな役をやってもらうことで見えてきた発見、そして、読み合わせが終わったあとで行った振り返り。この振り返りで、読んだ感想を交換したのですが、やはりそれぞれのバックボーンや演劇観があるのであって、出てくる意見も千差万別。同じ情報を受け取っても全然違う解釈になることは珍しいことではない。思い込みや頑なさを取っ払って、みなさんのご意見に耳を傾けると、人の多様性と台本の可能性が見えてくる。

 本格的に稽古が始まるのは秋だけど、時々こうやってみなさんのお力をお借りして作品の骨格を創っていきたい。なんの台本かって? 情報公開をお待ちください。

「続・やってみる演劇」現場レポート②

 1週間ぶりの再会。前回少し打ち解けた参加者のみなさんの関係性が初期化されているかも、そんなイメージで会場入りしたのだけれど、和やかな空気が流れていて少し安心。ウォーミングアップのゲームが始まるとさらに、加速度的に仲良くなってゆく。積み重なってゆく。「人間知恵の輪」と「連想ゲーム」をしたのだけど、私が頑張らなくても声を掛け合い、笑い合い、本当に楽しそう。これはいい発表になりそうだ。

 「連想ゲーム」での話。
 これは連想ゲームあるあるなのだけれど、自分が反応するべき言葉のもう一つ前に反応してしまいがち。例えば「野球」→「応援」→「ボール」みたいな。この場合の「ボール」は二つ前の「野球」からの連想であることが想像できる。瞬間的に妄想を膨らませ、言葉を紡ぐのは確かに難しい。失敗のリスクがある。何も言葉が出てこない、という。でも、失敗することは悪いことではないので、それを恐れず、瞬間に反応する癖をつけて欲しいと思い、その旨を要求してみた。するとみるみるみなさん瞬間に飛び込んでいく。そうするとゲームも今まで以上に盛り上がる。緊張感が増し、ゲーム性が上がったのだ。失敗も起こる。でもそれはみんなの笑顔に還元される。むしろ失敗した方が面白いんだ。ミスが許容される空間。だからみんな怖がらずにリスクをとって飛び込んでいける。ミスを恐れて安定的に進んでいたゲームはあまり盛り上がらない。淡々と回っていく。リスクを取ると途端に面白くなる。私たちの目的は失敗しないことではない。面白い物を創ること。楽しむこと。それがどういう仕組みなのか、その一端を全員がゲームを通して共有できたのだ。コミュニケーションゲームはアイスブレイクとして使われがちで、もちろんその効果はあるのだけれど、やりっぱなしにするのではなく、そのゲームの有用性を最大限に引き出せるルールの設定やコーチングがあるとなお良いのだろうと思う。それはその時集まった方々によって変わってくる。その場で起こっていることを的確に感じ取り、どうすればより効果的に進めることができるかを考える。ワークショップで即興性や感性や直感などを試されているのはむしろ講師の方だ。自分の立場は不動で、受講者の方を吟味し、教え、導こうとするとなかなかうまくいかない。自分の型に嵌めることになるからだ。トレーニングならそれもいいだろう。できないことができるようになるべく努力することを否定するものではない。この辺は当然議論の余地が大いにあるのだけど、「クリエイティブな空間を創る」という場作りを目的に臨んだ今回のワークショップにおいて、今回の経験は実に印象的だった。

 私の書いた台本を4チームで同時に創作していく。同じ台本でも、同じ役でも、やる人によって、演出によって、全然違うものになる。年配の男性がやりがちな上司役を若い女性がやると作品に変化が生まれる。しかもそれは全然おかしなことではない。セリフで言っていることに捉われず心の中に設定を持つ。相手に合わせているだけなのか、商品を売りたいのか、お客さんに早く帰って欲しいのか。それだけでセリフの言い回しも間も立ち姿勢も全然違ってくる。舞台を広く使うこと、逆にあえて狭く使うこと。相手を説得する時、真摯にいくのか、恫喝するのか、お色気作戦に出るか。出演者の方々の演技を拝見して、それを活かす形でどんどん変化を加えていく。そういう考え方もあるか、あの作品がこうなるか、と観ている方も大変刺激を受けておられた。一度可能性が広がり、創作意欲に火が付くと、あとはどんどん自分たちで工夫していける。最後の自主練習は外から見ているだけで大満足だった。

 発表も終わり、振り返り。
 みなさんの言葉に実感がこもっている。ワークショップを振り返るとき、ファシリテーターの欲しい言葉を推測して話すという無意識の強迫観念のようなものを感じることは多い。もちろん面白くなかった、とか、果たしてそうだったろうか? と異論を挟むのは勇気がいる。なかなかあの場で言えるものではない。でも実感のないことはあまり口にしないように心掛けている。実験を検証し、成果を共有する場だと思うので、理想の結果を想定して、「あたかもそうであったかのように」情報を操作するのはワークショップの意義が薄らぐように思うからだ。みなさんの実感を共有し、持ち帰り、次の現場に活かしていく。我々が当たり前に、何気なく見ていた世界の見え方が少し変わったなら嬉しい。

トリコ・A 12月公演に向けた読み合わせ稽古①

 本日3月27日、トリコ・Aの12月公演に向けた読み合わせ稽古を行いました。10:00〜12:30と13:00〜15:30の二部構成。述べ20名の俳優さんにご協力いただきました。1週間程度の募集期間だったにも関わらず、本当にたくさんの方にお集まりいただきまして感謝いたします。

 やはり実際に俳優が読むと、文字で描かれた世界が立体的に立ち上がってくる。色んな役を色んな人が演じると、役柄や世界観の色んな可能性が見えてくる。演出の山口さんも随分と作品を立ち上げる参考になったようです。参加者の皆さんも「楽しかった」と帰って行かれました。10代〜70代まで、老若男女との新しい出会いや再会。やってよかった、本当に。

 最後は各自の感想を伺いました。自分の読んだ役の感覚に照らし合わせたご意見がたくさん出てきたことにハッとしました。文字で読んで感想を言うなら、もっと構造などの俯瞰した話になるのだろうと思います。しかし、演じた上での戯曲の感想はその役と自分を重ねた極私的なものになるんだ、という新鮮な驚き。身体を通すことの有意性、またはそのイニシアチブの強さ。そんな明らかな影響を目の当たりにし、「私たちはそんなことをやっているんだ」と俳優業について再認識しました。

 公演詳細は情報公開をお待ちください。主催者からのGOが出ましたら即時アップいたします。そして次の読み合わせ稽古は4月1日。またたくさんの俳優さんにお越しいただきます。皆さんのご協力と想いがトリコの作品を確実に押し上げてくれます。次回の報告もお楽しみに!

高杉 征司

「続・やってみる演劇」現場レポート①

 合同会社stampが公益財団法人茨木市文化振興財団さんとタッグを組み行うワークショップ「やってみる演劇」。前回は【脚本編】(全8回)、【俳優編】(全4回)を2018年9,10月に開催しました。これがとても好評で、キャンセル待ちになったり、またやって欲しいとの受講者のお声をいただき、「続」として帰ってきました。宣伝しようと思った時にはすでにキャンセル待ちの状態だったので、情報公開が今になってしまいました。茨木の文化的ポテンシャルは計り知れない。

 私(高杉)が講師と作・演出をさせていただいていたシニア劇団の方や前回の参加者の方がチラホラ。リピーターが多いのは嬉しいです。そして半分は初めての方で、まさに「このバランスで発展させたい」という願いが通じたような座組み。リピーターしかいないとどこか「閉じた世界」になってしまうし、新規ばかりだと「お、面白くなかったのかな…」と不安にもなる。半々くらいで継続性を持って更新していきたいです。

 今回は「全2回」と短期決戦なので、ゲームも短めに。とはいえ、初めて会う人同士が演劇で密に絡み、自己を晒すのはなかなかにハードルが高く、ゲームを疎かにはできない。「歩く止まる」や「人間知恵の輪」「ビンバンボイン」などで楽しい時間を創っていく。気をつけたのは「コミュニケーション」と「刺激に対するレスポンス」。端的に言えば「目を見ること」「触れること」「話すこと」「反応すること」。目が合うだけで笑いが込み上げてくる。歩いているだけなのに遊びが見つかってくる。意識が外へ向いていく。今回一番面白かったのは「歩く止まる」で、私が二回手を叩くと近くの人と手を取って、自己紹介して、座るとき。それまでずっとお互いをけん制したり、緊張していた空気が一気に和んでいった。方々で会話が始まり、笑顔が溢れ、多目的ホールの雰囲気が一瞬でやわらかーくなっていった。それまでに少しずつほぐれていたこともあると思うけど、やはり「手を繋ぐ(触れる)」ことの親密感ってすごいな、と思った。そして「自己紹介(自分を表明すること)」。自分への責任と相手への安心。こういう社会性と人間性の中で我々は生きているんだと再確認。

 「おはようの一言で」。たった一言のセリフでも人格や関係性、場所や環境によって全然違う言い方になる。言い方だけではなく「間」「目線」「身体」も劇的に変わる。二人の距離が遠ければ手を振るだろうし、静かな図書館では肩に触れ、唇を動かすだけになる。好きなら見つめ合い、嫌いなら目も見ない。反対に、好きという信頼関係があれば逆に目も見ないかもしれないし、嫌いであることが相手に伝わらないように敢えて普通に(あるいは好きであるかのように)接することもある。気まずければ間が空くし、気分が乗れば間を詰める。本当に多岐にわたる。「おはよう」という一言でこんなに遊べるのだ。演劇の、演技の、可能性や日常性をしっかり身体を通して感じていただいたところで、台本に入る。

 適当にチーム分けし、同じ台本に取り組む。「いわくつき物件」という、以前私がws用に書いた超短編5人芝居。欠席やキャンセルがいくらかあったので人数は合わないが、来週は揃うだろうと進める。配役を順繰り入れ替えながらの読み合わせ。最後は配役を決めて終了。「セリフ、覚えてきた方がいいですか?」なんて積極的なご意見も出てきていい感じです。演劇は初めてです、なんて方も普通にセリフを口にされる。演劇の奥の深さとは裏腹に、この取っ付きやすさも魅力なのだろう。来週はいよいよ作品づくり。皆さんの想像力を刺激したい!

高杉 征司