サファリ・P」カテゴリーアーカイブ

高杉と往く「財産没収」2018 稽古の旅③

 いよいよ「財産没収」2018のツアーが始まった。

 松山から始まるのだけど、実はその前に12月1,2日と京都で試演会をして、途中経過をお客さんに観てもらった。「work in progress」といって、完成前に観てもらうことで完成度を高める効果がある。曲がりなりにもお客さんに観せるのだから、そこに帳尻を合わせて創作することになる。人間はどうにもリミットに帳尻を合わせるようにできていて、それは自覚的に「ま、いっか」と先延ばしするでもなく、無自覚にそうしているからタチが悪い。なので、試演会を設定してリミットを早めると、その分前倒しで形になっていく。一度形になったものは全体像が見えやすく、自分たちの創ったものが何なのか? 創ろうと思ったものとどの程度隔たりがあるのか? 意図しない果実があるのか否か、など判断がつきやすく、修正も入れやすい。
 それに加えて「観客の目」というのが非常に重要になってくる。稽古場の中では作品は完成しない。人目に晒して初めて作品となる。それは「作品を作品と認知する『観察者の目』がないと、作品は作品として存在できない」という物理学的・哲学的問いでもあり、しかし我々がもっと大切にしているのは「観客の目が自分たちの創ったものに輪郭を与える」という点だ。不思議なもので、我々は長い時間をかけて思考を巡らせ、言葉を尽くして創作に取り組むのだが、つまり自分たちが一番この作品に詳しいはずなのだが、観客の前で披露してみて「あ、この作品って@@@なんだ!?」と初見の観客に気づかされることが多い。それは思いがけず作品を覆ったテーマであったり、個々のシーンの意味だったり、個々人の人格の役割だったり、笑いを生み出すポイントだったり、大きなことから小さなことまで様々だ。観られることで客観性が生まれ実感してみたり、彼らの反応に教えられてみたり。言葉を交わさなくても、観られるだけで色んなことを感じられるこの稀有な本番体験が作品を成長させる。それを本番に前倒して行うことで、本番の段階でのスタートの完成度を上げよう、という試みがこの試演会なのだ。

 小さな会場にギュウギュウに集まってくれた観客の皆さんの前で、思いっきり演じてみる。劇場には何かがある。それが何かは分からないけれど、確実に何かがある。変な言い方をすると「霊力が宿っている」。幽霊がいるとかいないとか、そういう話ではない。本番が近づく緊張感や音響・照明の効果が与えてくれる力、それは間違いなくある。でもプラスαの何かを感じる。ヒリヒリする。
 共演者の二人も存在に輪郭が出てくる。クッキリと存在している。「ここにいる意味を感覚的に知ってしまった身体」。もっと言えば「意味があろうとなかろうと、私はここにある」という根本的な説得力を持っている。そんな我々を見つめる無数の目。その目の数だけ解釈があり、それらはどれも正しく、どれも正しくない。そして多様な解釈の集合体であるはずの観客は、なぜか「一致団結して」我々の眼前に立ち塞がる。それから逃げたり目をそらしたりすると、せっかく彼らが無意識に教えてくれることを取り逃がしてしまう。屹立し、そのリスクに向き合って、初めて果実を手にすることができる。
 試演会終わりの合評会でそんなことを考えていた。観客は作品の鏡。そこで見えたことを汲み取って、松山に繋げていく。さらには沖縄、東京へ。観客が変われば作品の印象も変わる。我々も日々変わっていく。結局、どこまでいっても変化し続けていく。そういう生きた作品を創っていきたい。

 12月5日。京都芸術センター最後の稽古は「公開通し」。明倫ワークショップとして市民に公開の義務がある。公開稽古でもいいし、ワークショップをしてもいいのだけれど、我々が選んだのは「通し稽古」。松山へ出発する前の最後の稽古、最後の通しを公開することにした。これは今までなかったことで、やってみて非常によかったと感じている。試演会で感じたことを作品にフィードバックして再創作し、それを本番前最後の通しとしてさらに公開する。このタイミングでさらに観客の目に晒され、緊張感を持ってプレイできる。自分たちが再創作したものが何だったのかも、薄ぼんやりとではあるが自覚できる。参加者の皆さんは本当に熱心に観てくださって、作品に、我々に輪郭を与えてくださった。感謝します。

 そして今週末は初めての沖縄公演! ワークショップもやります! 素敵な出会いに期待!

サファリ・P 第5回公演『悪童日記』チケット発売開始!

本日2018年12月1日よりサファリ・P 第5回公演『悪童日記』のチケット発売開始!

原作翻訳者である堀茂樹氏をして「今はもう地上にいない原著者アゴタ・クリストフに観せたかった」と言わしめ、追加公演も行ったサファリ・Pの代表作を再演します。演出・演技をさらに研ぎ澄ました上で、双子の一人を女性とし、作者アゴタの孤独を掘り下げてさらなる深みへと潜ります。

「私たちはヒトラーと、どう違うのか」

『悪童日記』という小説に満ち満ちた「言葉を持たないための言葉」からは、言葉を信じられない今の世界への切実な問いが滲み出します。

皆様のご来場をお待ちしております!

公演詳細・ご予約はこちら

高杉と往く「財産没収」2018 稽古の旅②

 稽古する。飯食って、クソして、寝る。それを幾度か繰り返していたら、アッと言う間に明日から小屋入り。早い! 光陰矢の如し! 「矢」と言えば「達矢」くん。ブレイクダンサーだが、いろんな表現形態に興味を持っていて、お芝居も気に入ってくれている。私にトーマスやウィンドミルといったブレイクダンスの技も教えてくれる。教え方の特徴は「飴」と「チョコ」。ずっとべた褒め。ダメだよ、達矢くん、虫歯になっちゃうよ! 達矢くんの「飴」や「チョコ」を求めて、最近では佐々木ヤス子さんもウォーミングアップに達矢presentsブレイキング講座を取り入れた。私の視界の端っこでクルクルと回っている。っていうか、うまいな、佐々木ヤス子! クルクルしてるやん、クルクル!?

佐々木「ちょっと気持ち悪いです・・・」

三半規管は弱いようだ。

 

 どうも舞台が小さい気がする。ちょっと動いたら人にぶつかるし、振り返れば壁・・・絶対に前回公演より縮小されている。舞台監督の浜村くんに詰め寄る私。前回と全く一緒だと舞台図を見せる浜村くん。腕を組む二人。沈思黙考。結論が出た。

「達矢くんがデカいんだ!」

な訳あるか!
確かに初演・再演に出演した松本くんは小さかった。だとしても、だ。

いや、やっぱりこいつがデカいんだ・・・

 佐々木ヤス子さんが歩いている。それはもう歩いている。あとをつけてみる。ストーキングではない。共演者にストーキングはしない。いや、共演者以外にもストーキングはしない。私はストーキングをしないタイプの人間だ。信じるかどうかはあなた次第だ。彼女があまりに完璧なので化けの皮を剥がしてやろうとつけている。芝居はうまい、セリフもすぐに覚えてくる、演出の言葉への反応も抜群、ユーモアがある、人の意見はいったん受け入れる、性格がいい、笑顔が素敵 etc.etc これは達矢くんにも共通のことだ。なんだ、この二人は。一緒にいると俺の浅ましさが際立つではないか!? マジ、天使かよ!? いや、そんなはずはない。人間とは生まれながらにして罪を背負っているのだ。生きていること、それ自体が罪悪なのだ! おっ、芸術センター北館の建物と壁の隙間に入っていくぞ。これはとんでもない秘密があるに違いない。架空請求の証拠を隠しているのか!? 悪口を吐き出す穴を掘っているのか!? ジリジリと距離を詰める。思い切って飛び込んでみる。

高杉「キョキョキョキョキョッ! 人間なんて一皮むけば皆一緒よ〜!」

彼女は猫にエサをやっていた・・・
根本的に違うのだ、俺と彼女は。優しいんだ、本当に。マジリスペクト。

そんなこんなで絶賛稽古中! 
みなさんのご来場をお待ちしております!

『財産没収』ドラマトゥルギー・ノート その二
~時代背景について~

 サファリ・Pのドラマトゥルクを務めております朴といいます。このドラマトゥルギー・ノートでは、サファリ・Pの『財産没収』の作劇術(=ドラマトゥルギー)について、3つの要素に絞って紹介をしています。今回は『財産没収』という戯曲が書かれた時代背景について論じます。


写真/サファリ・P 第3回公演『財産没収』より 撮影/堀川高志(kutowans studio)

 『財産没収』が出版されたのは1941年6月19日。アメリカが第二次世界大戦に参戦するほぼ半年前です。同年12月8日(アメリカでは、12月7日)に日本軍による真珠湾攻撃が行われました。この劇のト書きの中には、時代が何年頃であるかの記述がありません。劇中で少女ウィリーが口ずさむ歌You’re the Only Star in My Blue Heavenはジーン・オートリー(1907-1998)によって作詞作曲され、1936年に発表されています。そのためこの劇の「時間」は1936年から1941年の間であると推定されます。

 この作品のテーマソングを歌うジーン・オートリ―は、「The Singing Cowboy:歌うカウボーイ」の愛称で呼ばれた、米国を代表する国民的カントリー&ウェスタン・シンガーかつ西部劇俳優でした。日本では、「Here Comes Santa Claus/サンタクロースがやってくる」、「Rudolph The Red Nosed Reindeer/赤鼻のトナカイ」、「Frosty The Snowman/フロスティー・ザ・スノーマン」などの戦後リリースされたクリスマスソングでよく知られています。ちなみに、You’re the Only Star in My Blue Heavenは、ベスト盤等にも収録されておらず、彼の歌の中ではあまり有名ではありません。

写真/サファリ・P 第3回公演『財産没収』より 撮影/堀川高志(kutowans studio)

 当時の時代背景について、具体的には1920~40年代の戦間期のアメリカのことをより掘り下げてみます。1920年代のアメリカは「狂乱の時代」と呼ばれ、大きく栄えました。アメリカは第一次世界大戦で強力な債権国になり、好景気を背景に大衆消費社会化が一気に進みました。自動車と映画が普及し(自動車の価格は10年代の3分の1となり、映画は27年にトーキー化され、29年にアカデミー賞が発足)、ジャズと雑誌も流行します。当時は「ジャズ・エイジ」とも言われました。ニューヨークでは建築ブームが起こり、エンパイア・ステートビルやクライスラー・ビルが建築されます。また、1920年には女性参政権が確立し、フラッパーと呼ばれる自由奔放な女性たちも現れました。1920年には禁酒法も制定されますがアルコールを求める人々は絶えず、シカゴのアル・カポネに代表されるギャングによる全米の酒類密輸と組織犯罪の勃興に繋がっていきます。

 政治的には、歴代最低と言われる大統領ハーディングと、なにもしない「サイレント・キャル」クーヴァ―が続き、1929年10月24日、「暗黒の木曜日」と呼ばれる株式暴落が始まり大不況が起こりました。1931年までに4000以上の銀行が倒産、1933年には実質生産は3分の1減り、失業率は25%に達します。絶望が全米を支配する中、1932年に当選したフランクリン・デラノ・ローズヴェルトは政府が積極的に市場経済に関与する「ニューディール政策」で、公共事業や職業訓練等を積極的に行います。以上みてきたとおり、30年代のアメリカは20年代の好況から急転直下した不況のどん底にありました。『財産没収』のウィリ―のような、かつて華やかな生活を垣間見た貧しい少女は実際に数多く存在していたのです。ちなみに、前回少し言及したのですが、アメリカ南部には「名誉の文化」という特有の文化があり、テネシーの作品に大きな影響を与えています。これに関しては、東京公演時、上演前に私が行う解説トークで話そうかと思っていますので、ぜひおいでください。京都・愛媛・沖縄でご覧になる方で、もし気になる方がいらっしゃいましたら、サファリ・PのSNSで聞いていただければそこでもお答えします。

写真/サファリ・P 第3回公演『財産没収』より 撮影/堀川高志(kutowans studio)

 次回は、これまでほぼ論考がないサファリ・P独自の演技・演出について書きたいと思います。観劇してくださるみなさまの感想が「むずかしい」で終わらないように、どういうところに目を向け耳を澄ませばよいかを論じます。ご期待ください。

 

筆者:朴 建雄

ドラマトゥルク。演劇が必然的に抱え込む様々なあわいを活性化することに関心があり、創作過程と観劇体験の両方を深めるため合同会社stampの演劇製作に関わる。こまばアゴラ演出家コンクール2018実行委員会事務局長。2018年、クロード・レジ演出『夢と錯乱』の劇評により、ふじのくに⇄せかい演劇祭2018劇評コンクール最優秀賞受賞。

 

 

「財産没収」ドラマトゥルギー・ノート その一
〜テネシー・ウィリアムズという劇作家について〜

 サファリ・Pのドラマトゥルクを務めております朴といいます。ドラマトゥルクというのは、ドラマトゥルギーの担当者のことです。ドラマトゥルギーとは、「作劇術」の意で、かつては戯曲の書き方を指しましたが、戯曲以外の要素が大きくなってきた現代の作品においては、その意味が上演までの創作過程全体のことに広がりつつあります。この変化に対応し、もともと劇作家が兼ねていたドラマトゥルクの仕事は企画制作(題材や戯曲の選定、編集)・創作過程(稽古場での意見交換)・観客受容(広報や解説)にまたがってきています。

 今回このドラマトゥルギー・ノートでは、サファリ・P 第4回公演『財産没収』のドラマトゥルギーを三つの要素に分けて記していこうと考えています。具体的には、作者テネシー・ウィリアムズ、『財産没収』が書かれた時代背景、サファリ・Pの演出・演技の方法論に関して書いていきます。今回は、劇作家テネシー・ウィリアムズと彼にとって『財産没収』がどのような位置づけの作品なのかについて論じます。


 写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 テネシー・ウィリアムズ(1911-1983)は、20世紀のアメリカ演劇を代表する劇作家です。本名はトーマス・ラニア・ウィリアムズ三世で、「テネシー」は本格的に劇作を始めた青年期からの筆名でした。彼に並ぶアメリカの劇作家としては、ユージーン・オニール(代表作:『楡の木陰の欲望』『夜への長い旅路』、ノーベル文学賞受賞者)、アーサー・ミラー(代表作:『セールスマンの死』『るつぼ』)、エドワード・オールビー(代表作:『動物園物語』『ヴァージニア・ウルフなんて怖くない』)などがいますが、ご存知でしょうか?テネシーの代表作の多くは1940~50年代に書かれ、例えば『ガラスの動物園』(1944)『欲望という名の電車』(1947)『熱いトタン屋根の猫』(1955)は、日本でも盛んに上演されています。同じテーマを何度も描き続ける作家として知られ、1960年代以降は批評家にマンネリだと酷評されながらも独自の深化を遂げた作品を書き続けましたが、生前は評価されず失意のうちにアルコールとドラッグとセックスに溺れた晩年を送りました。同性愛者であったことでも知られており、同性愛解放運動が高まりを見せていた1975年に出版された『回想録』では同性愛経験を赤裸々に語っています。この本は当時ベストセラーとなりました。彼の戯曲の主な題材は、出身地であるアメリカ南部(この地域独自の文化は次回詳述します)や統合失調症を病み生涯を精神病院で送った最愛の姉ローズでした。彼の作品は呻き声にも似て、喪失の苦しみと再生への欲望に彩られています。

写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 今回上演される一幕劇『財産没収』は、もう一つの一幕劇『解放』とともに、『アメリカの情景』という題名で、1941年6月19日に、ニューヨークで出版されました。当時テネシーは30歳で、彼にとって初めての著書出版でした。この『アメリカの情景』には、「人々の風景」(二本のミシシッピ劇)という副題もつけられています。当時は『ガラスの動物園』や『欲望という名の電車』のブロードウェイ公演による大成功を収める前で、テネシーにとっては苦難の時期でした。1940年に初めてプロ劇団のために書いた作品『天使のたたかい』は試演会での不評によりブロードウェイ公演中止になり、ハリウッドに一時的な職を得たものの「ハリウッドの虫けら」として悪戦苦闘していたのです。青年期以降の彼はひとところに長く住むということがなく、アメリカ各地への放浪を繰り返して執筆していました。今回のサファリ・Pによる『財産没収』の演出は、そんな当時の彼の姿を偲ばせるものになっています。


写真/利賀演劇人コンクール2015参加作品「財産没収」より 撮影/中尾栄治

 ちなみに筆者は大学院でこの作家を研究しており、修士論文のテーマは未邦訳の後期作品群でした。ウィリアムズの後期作品には『ガラスの動物園』の続編ともいえる自伝劇『ヴィユ・カレ』『曇ったもの、澄んだもの』や、『グレート・ギャツビー』で著名なスコット・フィッツジェラルドと妻ゼルダに自分と姉の関係を重ね合わせた亡霊劇『夏ホテルへの装い』など興味深い作品が多くありますが、残念ながらいずれも未邦訳です(そのうち筆者が自分で翻訳しようと思っていますが)。これらの作品に関する最新の研究成果、テネシーの生い立ちや姉ローズとの関係性についての詳細な記述を盛り込んだ充実した解説文を公演で販売するプログラムに寄稿しておりますので、ご興味のある方はぜひ劇場でお手に取っていただければ幸いです。

 

筆者:朴 建雄
ドラマトゥルク。演劇が必然的に抱え込む様々なあわいを活性化することに関心があり、創作過程と観劇体験の両方を深めるため合同会社stampの演劇製作に関わる。こまばアゴラ演出家コンクール2018実行委員会事務局長。2018年、クロード・レジ演出『夢と錯乱』の劇評により、ふじのくに⇄せかい演劇祭2018劇評コンクール最優秀賞受賞。

高杉と往く「財産没収」2018 稽古の旅①

 財産没収の稽古がすっかり始まっている。再々演ということは三度目のお披露目となるのだからすんなり進行するのかと思えばそうでもなく、やはり産みの苦しみに直面している。作品を創るというのはつまりそういうことなのだ。

 三年前、初めてこの作品に取り組んだときは本当に往生した。ひと月半、期間は短いけれど、毎日朝から晩まで稽古場に缶詰状態で「あーでもない、こーでもない」と知恵も身体もひねり続けた。上手くいっていると思っても辻褄が合わなくなったり、気がつけば何を目指していたのか分からなくなり迷宮を彷徨い歩く日々。そんな苦労の甲斐あって、それなりの手応えを持って利賀演劇人コンクール2015に参加し、優秀演出家賞一席をいただいた。と、そこまでは良かったが、2017年夏、せっかくそれなりの評価をいただいた作品なのだから関西でも上演し、地元のお客さんに観ていただこうと再演プロジェクトが始動し、稽古が始まってみると、それはもう何をどうしたらいいのかてんで分からないことになっていた。動画を見て、その通りにやってみるのだけど、なぜ自分がそんなことをしているのか? さっぱり分からない。形だけはなぞれるのだけれど、演技の根拠もそこにいる意味も感情も概ね思い出せない。何度かやれば湧き上がってくるだろうと試みるも、やれどもやれども模倣しているだけの私がいる。中身なんて何もない、形骸化した「死に体」だけがそこにある。

 その原因と思われるのは、「圧倒的な情報量」。本来演劇は「言葉の意味」を伝えることに終始しない。言葉とは反対の心持ちでいるかもしれないし、そう言わざるを得ない状況こそが大切かもしれない。同じ意味でも発話の仕方によって人格や関係性が見えてくる。そんなことが、この豊富な情報こそが演劇の面白さであることに疑いの余地は(あまり)ない。そこへきてこのサファリ版「財産没収」は情報を限定しない豊かさに溢れている。ポエティックと言ってもいい。その女は郡の調査官かと思えばウィリーの姉「アルヴァ」であり、ともすれば作者テネシーの姉「ローズ」でもある。はたまた「姉」という概念そのものとしてフラフラ歩いているようにも見える。その様はギリシャ喜劇をも彷彿とさせる。テネシーだと認められるその男は、時には作中の登場人物ウィリーであり、芸術・創作に苦しんでいるかと思えば、社会との軋轢に苛まれ、姉を憂いたかと思えば、今度は恋人との関係(ジェンダーも含め)に怪気炎を吐く。テネシーの恋人と思しきその男は、ある時は作中の登場人物トムであり、またある時はテネシーに立ちはだかる「社会」そのものであり、創作に手を差し伸べたかと思えば、痴情の果てにテネシーをぶん殴る。人にしたってそんな塩梅なのだけど、そこへきてモノまで加わってくる。テネシーが「財産没収」を記している赤いノートは、作中の赤い凧であり、赤い絹のチョコレートの箱であり、芸術・創作の苦しみ・喜びの権化である。「腐ったバナナってなんだ?」「プレストン先生って誰だよ!?」と、もう触り始めたらキリがない。それらが時に姿・意味を変え、時に重複して、舞台上に降り積もっていく。演出も俳優もそれらのおびただしい情報を精査して、場面ごとにいるものいらないものを峻別していく。当然綺麗に整頓はできないので、その情報の湯船にどっぷり浸かっている感じ。やるたびにイメージが変わる。やっている人間からしてそうなのだから、観ている人は尚更だろう。そんな「概念」と「存在」の「ゆらぎ」「不確かさ」「重複」を出来るだけシンプルに料理する。焼き魚は塩で喰らうのが一番うまい。まあ・・・これは個人的嗜好だ。

 そして今回、やはり同じ現象を楽しんでいる。前回同様に立ち上げてみて、それが形骸化していようがひとまず立ち上げて、不具合も新たな可能性もみんなひとまとめに探っていく。出演者は3人中2人が代わった。そりゃ苦労だってひとしおだ。だけど稽古を重ねるほどに、言葉を紡ぐうちに、パフォーマーの立ち方も変わってくる。作品の密度も詰まってゆく。字義通り「無限の可能性」を感じる。嗚呼、私はこんなことが楽しくて演劇に邁進しているんだった。そんなことを思い出させてくれるこの作品。再演すればするほどに、面白く、分かりやすく、刺激的になっている。掘る作業は苦しいけれど、掘れば掘るだけ水が湧く。作中で、創作に苦しみ、創作に歓喜するテネシー・ウィリアムズの姿は、まさに稽古場で苦悩し、悦んでいる私たち自身の姿なのだ。

サファリ・P 第4回公演「財産没収」チケット発売開始!

サファリ・P旗揚げのキッカケとなった作品「財産没収」。
初演は2015年7月、利賀山房(富山)にて上演。利賀演劇人コンクール2015に参加し、優秀演出家賞一席を受賞しました。
再演は2017年7月、アトリエ劇研(京都)にて上演。利賀で審査員の方々からいただいた課題に取り組み、大幅に改定しました。より深く、より面白く、より分かりやすくなったと自負しております。
そして今回の再再演。開催都市は愛媛・沖縄・東京・京都(試演会)。レパートリー作品として、たくさんの地域の方に観ていただけるのを楽しみにしています。キャストも高杉征司・達矢・佐々木ヤス子という面々で、装いも新たにお届けします。

本日10月1日、いよいよチケット発売開始です!
みなさまのご来場を心よりお待ち申し上げます!

公演詳細・ご予約はこちら

リピート割引のお知らせ【財産没収】

多くのお客様に、もう一度見たい、とおっしゃっていただきましたので、急遽、リピート割引を設定いたしました。

8月20日(日)11:00、15:00

どちらの回も、二回目の観劇のお客様は1500円でご覧頂けます。(u25は変わらず1000円です)

予約は不要。受付にて「リピート割引希望」の旨と「お名前、1度目の観劇日時」をおしらせくださいませ。皆様のご来場をここよりお待ち申し上げております!

財産没収2017.08.12.13

さて、今日は14日。劇場入りしております。今日は12日と13日の稽古を記録しておきます。両日ともサファリのメンバー、達矢さんが、13日は音響のキョロちゃんが来てくれました。

まとめて書いてしまいますが、この2日間で、改めて、大きく、この芝居ってなんなのか、考えることになりました。高杉氏の提案です。私は逆に、小さな細い修正点が思った以上に出てきて、これはどうしたものか、と思っていました。

話しながら、まっちゃんという存在が、曖昧だったことに気がつきます。高杉氏はテネシー、えみちゃんはテネシーの姉。いずれも誰であるのかはっきりしていました。しかし、まっちゃんだけは「恋人」という非常に曖昧な存在。いわゆる象徴的な存在だったのです。

だから、どうしたって対象でしかなく、主体的なセリフや動きが出てこないのです。まっちゃん自身はもちろん人間ですから、彼が彼なりに通す筋というものはあるのですが、この芝居の中で、彼を捉えられていないことに気がつきます。

でも、「恋人」と言っても、具体的に誰かわかるものだろうか。欲望という名の電車のミッチやスタンリー。ガラスの動物園のジム。あるいはテネシーのリアルな恋人。でもどれも、この作品にとってはメタファーでしかなく、名も無き存在です。

メタファー。

もしかしたら、この男は、テネシーの、社会性の部分なのではないか。と思いつきます。高杉氏演じるテネシーがアーティストの部分だとしたら、まっちゃん演じるテネシーは、それを制御しようとする部分。堕ちていく彼を必死で引き戻そうとする役。

そうやって整理したところ、まっちゃんが、言いやすくなったセリフがいくつか出てきたそうです。高杉氏も「セックス」は「自分を一本化しようとする動き。お互いの部分を受け入れようとする動き」なんだなと言います。えみちゃんとまっちゃんが出会うのはやはり、姉と弟としてなのです。

そうやって3人が3人とも、ハッキリとして姓名を持つ個人であることがわかり、また一つ、この作品の筋が通りました。

それから、いくつかまだ残っていた「なんとなくセリフを割り振った部分」を正しく振り分けたり、新たに加わったダンスの部分のきっかけを合わせたりしました。

いよいよ小屋入りです。稽古場の解体を、サファリの達矢さんが手伝ってくれました。